前回の記事で、殷時代の三星堆文化が日本の渡来人のトーテム(鳥、太陽、龍、大)や自然崇拝形式な点から、この文化が日本と関係あるのでは?と思ったので、古代中国人について調べてみた。
古代中国人で日本人と関係があるといわれているのが、羌族(きょうぞく)と苗族(みゃおぞく)。
まずは、羌族について。

 

羌族(きょうぞく)とは、古代中国の中国西北部(チベットあたり)に住んでいた先住民族で、西羌とも呼ばれていた。陜西省から寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)にいた遊牧民族で、白狼を崇拝し、自らを白狼の子孫一族としている。
その祖先はシュメール人という説もある。古羌族は紀元前5000年から紀元前4000年以前から居たと言われている。古羌族の遺跡と思われるものは、チベット高原東部に見られる卡若(カロ)遺跡と現在の青海省から甘粛省にかけての地域に見られる馬家窯文化の遺跡がある。
古代の羌人は分布が広く、中国の西北,西南,中原の一部の地方にもその活動が見られた。
その後、時代を経て一部は現在のチベット・ビルマ語族の中の各族に発展変化し、別の一部はその他の民族、とくに漢族と融合した。ただ、岷江上流域の渓谷に生活する一部の羌人はさまざまな要因によって今日までその姿をとどめている。現在は少数民族のチャン族として存在している。

紀元前2000~紀元前1600年頃 夏王朝

中国太古の堯・舜・禹という伝説時代から、紀元前2000年頃から夏・殷(商)・周と王朝が変遷していった。
中国は、漢民族の国のイメージ強いが、ほとんどが異民族により統治されてきた。
夏王朝を起こしたのが黄河の大洪水を治めた禹(う)。
司馬遷は「禹興於西羌(禹が西羌地域から興った)」と指摘している。
([司馬遷『史記』太公史序])
他にも禹が西羌とする歴史書が多く存在するようだ。
(参考:中国大陸で王朝を築いたY染色体ハプログループ人集団)

日本人は 、DNAの塩基配列が、特殊な構造であるYAP遺伝子を持っている。

『ハプログループDE (Y染色体)』ハプログループDEはYAPという変異で定義される。YAP (ヤップ、Y-chromosome Alu Polymorphism)とは、Y染色体の長腕部「DYS287 Yq11」上にある約300塩基からなるAlu配列(Alu sequence)の挿入多型。この古代に起きた「M1」と定義される変異の痕跡(SNP)をY染色体上に持つのは、本来ならばtRNA、rRNAなどの核内低分子RNAに転写されるべきものが、何らかの要因によってY染色体上のDNA配列に挿入されてしまったもので、生体内での働きについては未解明である。Alu配列とは蛋白質をコードする配列を全く含まず、制限酵素Aluで認識されるためこの名がつけられた。YAP変異をもつ系統はハプログループEとハプログループDに限られる。『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』

YAP遺伝子を持っているのはハプログループ D系統(日本など)とE系統(中東)のみ。
E系統が多い中東には古代イスラエル人が住んでいたことから、日ユ同祖論にも結び付いている。
また、日本人と同じD系統をもつものに「羌族」、「チベット民族」がいる。

中国の少数民族であるミャオ・ヤオ語族と同様に、チベットビルマ語系の言語を話し、チベットに近い四川省・雲南省のいくつかの少数民族の中にD系統が低頻度で見られる。朝鮮半島では、ハプログループD系統が見られるが、これは近世に

チベットからモンゴル経由で入ってきたD1a1や、弥生時代に日本列島から朝鮮半島へ北上したD1a2aの系統であろうと推測されている。

ハプログループD (Y染色体)

YAP遺伝子をもつのは、D系統と、E系統だけで、それぞれが中近東にいたDE系統から分かれて、親戚関係にある。D系統をもつのは、アジアでは日本人とチベットのチャン族だけである。縄文人はD系統で、弥生人となってO系統が入って来た。秦氏、中央アジア。ユダヤ人はアシュケナージ系、スファラディ系、アフガニスタンのパタン族などすべてのユダヤ人にE系統がある。

 

 

Y遺伝子の研究論文(引用)、日本人の多くがD1、羌(チャン)族がD1を持ち同一祖先のDから分岐したことの証明

つまり、夏は羌族の王朝で、日本人のルーツと深い関わりがあることになる。

夏が存在したとされる年代の遺跡としては、宮殿を持つ都市文化である河南省偃師県(えんしけん)翟鎮二里頭村で発見された二里頭遺跡。
遺跡から人口2万人ほどとされ、当時では世界有数規模の大集落だった。
ここからは、トルコ石、翡翠の龍、銅爵、龍文様の玉璋が発掘されており、この時期から龍は王の権威の象徴とされていたようだ。また、二里頭遺跡周辺の当時の土壌に残る種子の分析から、粟(あわ)、黍(きび)、小麦、大豆、水稲の五穀を栽培していた痕跡があり、日本の五穀と類似している。

紀元前1600年頃 夏滅亡 殷(商)の時代

やがて、夏王朝は、東夷后羿(こうげい)部族に倒される。
夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ匈奴、後四川盆地に移住し、三星堆文化(古蜀国)を築いた。のち良渚文字は、巴族や蜀族によって加工され、巴蜀文字となった。

Wiki(夏三代)

夏滅亡後は、四方に逃げていったようで、日本のトーテムと類似した三星推文化は羌族の遺構のものだったようだ。やはり、日本人の祖先は羌族と深い関わりがありそうだ。

殷の王は神官で、神々を祭るために動物や異民族を生贄にしていた。
殷墟の王墓からは、首を切られた羌族の人骨が出土しており、羌族は奴隷と生贄にされていたという。

夏の後継といわれ、またそのように自称した民族は以下のものと考えられている。

禹:河南省禹州市は紀元前1世紀になっても夏人の町として有名だった
越国:福建省・広東省・広西省からベトナム北部にかけて活動。禹の墓があると伝承される会稽山は越人の聖地でもある。紀元前333年、越国は楚に滅ぼされ越人は四散した。
倭:倭人・倭族は百越の一族ともされ、また越人の一部は倭国に渡来したとされる。
匈奴

漢民族とし漢水の上流にいる羌族を南羌族、青海周辺に居る羌族を西羌族と呼ばれるようになる。
南羌族は周王朝建国の功労者「太公望」の故国であり、後に漢民族の大姓となっていく。
南羌族のトーテムは「羊」に変わり、「白狼」崇拝は、西羌族だけとなる。

紀元前1046-紀元前221年 周、春秋時代

紀元前1046年に周の武王が羌族と協力し殷王朝を滅ぼす。
周の歴代国王は羌族の娘を后としていたことから、周族と羌族とは同盟関係にあったようだ。
これで羌族は人間狩りの恐怖から解放された。
武王の軍師として勝利に貢献した太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)は、本名を姜子牙きょうしがという羌族の出身。諸侯として山東半島に封じられ、これが斉(せい)の建国となる。
よって斉を「羌斉」ともいう。この国は春秋時代に春秋五覇の筆頭として栄え、のち秦の始皇帝に滅ぼされるまで、山東に独立国家を維持します。

 

 

日本に水稲が伝わりだしたのは、紀元前1000年頃(縄文晩期~弥生祖早期)からと言われている。
稲作は朝鮮半島から伝わってきたとされてきたが、弥生米のDNAは朝鮮半島には存在しない稲の品種が確認されている。現在は中国中南部から直接渡来したルートが提唱されている。
縄文時代晩期に水田稲作 を行っていたことを示す遺跡としては、福岡県の板付遺跡、 佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡 が有名。

「論衡」という中国の歴史書(編者:王充)に
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯(成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず)」
(恢国篇第五八) と記録されている。
周の成王の在位期間は紀元前1043年 から 紀元前 1020年であることから、この時期以前には中国と日本で交流があったことが分かる。

越(えつ、紀元前600年頃 – 紀元前306年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。

秦の時代(紀元前220年~)斉の行方

チベット高原に残った羌族は、秦・漢の統一国家に加わらず、そのまま遊牧を続けた。
斉が滅んだのは紀元前221年、越は紀元前306年にほろんだ。
一方でほろんだ斉は出雲地方へきたようだ。
出雲のDNAはD1系統で、O系統(呉系、越系、燕系などの渡来系弥生人)はほぼ居ないという。
スサノオ系は斉、天照系は江南(呉、越系)、つまりルートが異なる同じ羌族ということになるらしい。斉が滅んだのは紀元前221年、越は紀元前306年にほろんだ。

古墳時代中期に朝鮮半島から渡来した秦氏(D1)は出雲には上陸せず響灘から島根県西部(石見)あたりに上陸した。

三星堆遺跡のある四川省には現在もイ族という彝族(旧族名: 夷族、倭族)が住んでいる。

 

宗教

アニミズム

チャン族は古代羌族の時代から脈々と受け継がれてきた原始宗教である精霊・多神崇拝(アニミズム)を信仰している。彼らの精霊・多神崇拝というのはいわゆるアニミズム的観念であり、全ての人間には霊魂が宿っていて、それが外界の物事に推し及ぼし、あらゆる物,場所に精霊が存在し、行動していると考えた。しかしながら、歴史的に他の外来宗教の流入によってアニミズムにいくらかの影響があり、とくに1月9日の「上元会」、4月8日の「仏祖会」、7月19日の「玉皇会」といった道教の行事が強制されたこともあった。

彼らの宗教は多神教であるため、数多くの神が存在する。その中でも彼らがもっとも崇拝してきたのは「天神(太陽神)」である。天神は万物を主宰し、人間と家畜に禍福を及ぼす神であると考えられた。この天神を主神として山の神,火の神,羊の神,水の神,土地の神と続き、全部で10数種類もの神が存在するが、「万物有霊」の考えから「着物の角」から「体の垢」、「吐息」にいたるまで、ありとあらゆる万物に霊が宿ると信じられている。このように形あるものから形のないものまで崇拝するのであるが、形のない神々に対しては「白石神」といって石英をその神々に見立てて崇拝する。これは彼らの「白石伝説」に基づく考えなのであるが、伝説では強敵の戈基(ガァチィ)人を神の啓示によって倒したチャン族は戦勝を記念して神を祀ろうとしたが、神に形がなかったため、夢(神の啓示)で見た石英を神の象徴として崇めるようになったという。この「白石伝説」はチャン族の儀式で必ずシャーマンによって唱えられ、彼らの神話として語り継がれてきた。

チャン族の宗教で欠かせないのがシャーマン(巫師)である。シャーマンはチャン族の言葉で「許(シュイ)」と呼ばれ、生産にも従事している宗教職能者であり、神と通交し、悪魔とも接触するので、人々が祀る神々以外に彼自身の保護神を持っている。彼は民族の歴史や伝説に通じ、さまざまな神話物語と故実の由来などを暗誦しており、各種の記録されていない呪文を唱えることができ、神通力を発揮する法器をもっていた。そのため人々は彼が自然を自在に操る才能を備え、風雨を呼ぶことができ、家畜と作物を繁殖させ、運命の吉凶を変える能力をもっていると信じた。シャーマンはさらに医者でもあり、どのような病気も治療できるとされた。それゆえにシャーマンは長年にわたってチャン族の社会生活で重要な地位を占め、人々の精神上の指導者というべき存在であった。

シャーマンは徒弟制によって養成され、経典がなく、一切の呪文は師匠の口伝にたよる。弟子の数人に制限はなく、伝授は多く夜間に挙行される。その時間は労働後の余暇でもあり、神秘性を添える時間でもあった。その学習は通常3年ないし5年を要するが、全ての呪文を暗誦して使用することができ、一切の儀式を熟知すれば「謝恩儀礼」を挙行して正式に「卒業」が申し渡される。その時になると弟子は師匠を宴会に招き、靴,靴下,衣裳[2]などを謝礼として師匠に贈る。師匠も法器一式を弟子に贈り、弟子が独立することを許可する。