以前、何気なく福祉関係のテキストを読んでいると

「障害の受容」に関して、ダウン症のお子さんを

育てている方の寄稿を見つけました。

 

家族として「障害の受容」がここまで為されていると、

この「障碍」をもったご本人は、

もうすでに「障害者」ではないと思いました。

 

教科書(テキスト)で泣けたのは初めてでした。
一部、抜粋して掲載させて頂きます。

 

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ダウン症の中では、私の知る限り、最重度な娘ですが、この人の特別なオーラとゆっくりした歩みの成長を通して、一日一日大切に日々を過ごせ、周りの物や人を大切に感謝し、つぶさに感じ眺めながら、豊かにかかわっていける営みがあります。多くの人の優しさの中で現在に至り、何かを失うことは何かを得ることだと実感し、育てているつもりが育てられ、助けているはずが助けられ、与えられています。娘の存在は癒しであり、幸せであり、宝物と感じる穏やかで笑いの絶えない日々へと変化していきました。

 

事実をありのままに受けとめること、人を否定せず、条件を付けずにそのままを愛すること。障害をもつダウンちゃんであることは変えられずとも、自分を含め、取り巻く人々の意識は変わっていくこと。状況は常に変化していること。常識にとらわれず(未経験の事象を今ある他からの情報でうのみにしないこと)、能力主義にもとらわれず、障害児・者のペースを尊重し、こちらが寄り添って生活していくこと。本質をいつも考えること(自分とは別人格であるということ)。

 

幸・不幸は自分の心が決めること。考えすぎず一人で抱え込まず、時にはいい加減な(案外これが良い加減であったりするものです)子育てで余裕をもつこと。人間の心は案外、弾力性のあるもので、いつのまにか、日々のシーンの中で娘の笑顔のお返しだけで心は満たされ、喜びとなり楽しい毎日になっています。

 

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この文章を読みながら

「うん、うん」と頷いていた私です。

 

 

このお母様と娘さんの周囲には、

素晴らしいご家族がいらして、

 

娘さんが生まれた時に、

 

おじいさんは

赤いバラの花束をかかえて

「我家にこのような人(ダウン症児)がいてもわるくないね♪」

 

お兄さんは、

「いわさきちひろの絵にでてくるような優しい子になるね」

 

おばあ様は、

ただただ一緒に泣いてくれたとのことです。

 

 

私もゆっくりと成長する子どもたちと共に、

毎日の生活でひとつひとつ咀嚼しながら

感じることが沢山あります。

 

息子たちがいなければ、

私もまた時の流れに支配され、

周囲に流され本質を考えることなど

なかったかもしれません。

 

そして自分の心の弾性を

知ることはなかったかも。。 

 

「障害の受容」は、

自分には関係ないという方でも

「困難の受容」と捉えれば、

この文章は

応用が効く内容になっていますよね?

 

そう思いませんか?