(抜粋1)
カルビニズムはそうではない。生きている間に踏んだり蹴ったりの悲惨な運命に会った人は来世でも地獄に落ちるのであり、それは全く救済の余地のない冷酷な椅子取りゲームである。
また、誰が救われる者で誰が地獄に落ちる者なのかは、外面的には一切わからないということになっている。しかしカルヴィンの教義の信者たちは個々に、自分だけは生まれながら救われる側に入っているということを密かに堅く信じており、そのため彼らにとってはビジネスの場とは、自分や周囲にそれを立証するための場なのである。
彼らは金を稼いでもそれを享楽のために使うということはしない。むしろ彼らにとって稼いだ金は、自分が神に選ばれている人間であり、天国へ行けることを示す証拠の品である。
つまり資本主義を興した原動力は確かに金儲けの追求であったかもしれないが、その金儲け自体が、実は金自体のためではなく想像を絶する教義をもつ信仰のためだったというのが、ウェーバーの学説の論旨なのである。
(抜粋2)
インド人労働者たちは効率が倍になったのをこれ幸いとばかり、生産量を今までと同じにして半分しか働かなくなってしまったという。
これは一般に西洋と東洋の文化の違いからくる笑い話として片づけられることが多いのだが、実はどうやらこれは西と東の文化的衝突というより、むしろもっと広く資本主義社会と伝統社会の文化的衝突の話であるらしい。
伝統社会の引力圏を脱する際には西欧といえどもかなりの抵抗があり、そして現実にそれを振り切らせるだけのパワーを与えていたのは宗教的動機であったというのが実情であるらしい。
(コメント)
何かを信じるということが人間の性質にあって、それが社会的なものになると宗教として大きく捕らえられ、その中で後世に残る歴史が作られるのかもしれない。
僕たちは未来の人達から見ると何を信じているように見えるのだろうか。
カルビニズムはそうではない。生きている間に踏んだり蹴ったりの悲惨な運命に会った人は来世でも地獄に落ちるのであり、それは全く救済の余地のない冷酷な椅子取りゲームである。
また、誰が救われる者で誰が地獄に落ちる者なのかは、外面的には一切わからないということになっている。しかしカルヴィンの教義の信者たちは個々に、自分だけは生まれながら救われる側に入っているということを密かに堅く信じており、そのため彼らにとってはビジネスの場とは、自分や周囲にそれを立証するための場なのである。
彼らは金を稼いでもそれを享楽のために使うということはしない。むしろ彼らにとって稼いだ金は、自分が神に選ばれている人間であり、天国へ行けることを示す証拠の品である。
つまり資本主義を興した原動力は確かに金儲けの追求であったかもしれないが、その金儲け自体が、実は金自体のためではなく想像を絶する教義をもつ信仰のためだったというのが、ウェーバーの学説の論旨なのである。
(抜粋2)
インド人労働者たちは効率が倍になったのをこれ幸いとばかり、生産量を今までと同じにして半分しか働かなくなってしまったという。
これは一般に西洋と東洋の文化の違いからくる笑い話として片づけられることが多いのだが、実はどうやらこれは西と東の文化的衝突というより、むしろもっと広く資本主義社会と伝統社会の文化的衝突の話であるらしい。
伝統社会の引力圏を脱する際には西欧といえどもかなりの抵抗があり、そして現実にそれを振り切らせるだけのパワーを与えていたのは宗教的動機であったというのが実情であるらしい。
(コメント)
何かを信じるということが人間の性質にあって、それが社会的なものになると宗教として大きく捕らえられ、その中で後世に残る歴史が作られるのかもしれない。
僕たちは未来の人達から見ると何を信じているように見えるのだろうか。