(抜粋)
関税をはじめ政府による関門一切を撤廃し、個々の企業が自由に海外と取り引きする自由貿易体制をと
れば、そこに「神の手」が働いて国際経済を最良の状態にもっていってくれるはずだというのである。
高い関税障壁を設けている状態は、ある意味で世界全体の商業ネットワークのあちこちに検問所や料金所があって高速走行できない状態を意味し、貿易のエネルギーは最初から大幅に殺がれていることになる。
つまりそうした関門をすべて撤去してしまえば、貿易、というより世界全体の経済が拘束から開放されて、その本来のエネルギーをのびのびと全開できるはずである。
そうなれば世界全体が昔よりも富むはずだから、各国内部でもその経済規模が拡大することになり、政府としても関税収入こそなくなるものの、国内経済の拡大による一般の税収増大がその分を補ってくれるため、そうまんざらでもないというわけである。
完全な自由貿易の状態になった場合、その利益は誰の取り分となるのだろう。結論を先に言えば、理屈からする限りそれは特定の誰かの手に集中することなく、企業や消費者一人一人に広く薄く分配されることになる。それというのも基本的にこの体制のもとでは、消費者や企業が買いたいと思う製品や材料など一個一個について世界中から一番安いものを選択し、経済全体がコストの極小化を目指して動いていく。
そのため、その極小化の過程で生まれる差額の合計が、実は先ほどの貿易の利益に等しくなるのである。つまり自由貿易体制以前と以後で、個々の消費者や企業がどのぐらいコスト面で得をするようになったかを全体で合計すれば、それは理屈から言えば昔なら仲介貿易勢力が手にしていたような巨額の利益額に等しくなることになる。
自由貿易とは要するに「一番最初に二階に上がった者がはしごを引き上げてしまう」ことである。どういう意味かと言うと、それは産業競争力においてトップにある国が、後続の国々に追いつく望みを失わせるための制度に他ならないというのである。
実際、そうした後続の国々が追いつくための努力をしようにも、とにかくしばらくの間は国家がその産業を保護しないことには、海岸の波打ち際に砂の城を作るように、作るそばから外国製品の波に洗われて崩されてしまう。そのため当面それを保護するための防波堤が必要になってくるわけだが、ところが自由貿易とは、まさしくそうした保護のための防波堤を作ることを世界中で禁止する体制に他ならないのである。そのため、自由貿易を強要されて国家経済がまるごと壊滅した国の話は、経済史には枚挙にいとまがない。
(コメント)
結論からいって自由貿易という思想は、平均的な状態でいいやっていう妥協を実施する余地を残さない状態を示すのだろう。何かを1から育てて大きくするというのもあまり求めていない状態、要は最新の情報を持った即戦力が常に求められるということのようだ。国の収益もままならない。
自由貿易に移行したいという国はよっぽど自信があるというか攻めが好きな国なのだろうな。状態は1か0で、0.5はないのから。よっぽど強い国か背水の陣で望んでいる国くらいか。
でも自由貿易拒否するのは守りの国にとっては当たり前で日本なんかはその典型なのだろう。
上記の状態で考えると、国という概念がどこか壊れてきてしそうな感じさえする。
こんな歴史のシナリオが考えられそうである。
【前提】
国A、国B、国Cが存在し商品Aのシェアでしのぎを削っている。
国Aの製品Aが一番シェアを奪っていて国B、国Cは関税を設けてしのぎを削っている。
【工程】
①関税が取り除かれて自由貿易になる。
②国Aの大量生産された品質の良い製品が国B、Cに入り、シェアが国Aだけになる。
③国B,Cの即戦力の個人は国Aに移る。
④国B,Cは製品Aを扱えなくなり存在しなくなるか、国Aとして吸収される。
⑤国Aだけになる。
⑥国Aだけになったら国という概念はなくなり、個人が生まれる。
要するに強い国だけが生き残り弱い国は存在意義がなくなるということである。
ただ弱い国でも即戦力ある個人だけはその国に属さずに国Aに移住できそう。
恐らくこの時点でも国B、Cは残っていると思うが、それじゃ国ってなんだよっていう話になると、なんかよく分からなくなってくる。
自由貿易にシフトするとは、国が個人を保護しないことを意味するわけなのだから、より個人に責任がシフトされることを意味することを示すのは明白。
そんなとき個人は国に何を求めることができるのか?そもそも国はあるのか?
(国の存在については自由貿易以外の観点以外にもあるだろうし、複雑に入り組んでいる部分もあるとおもうのでこんなシンプルにはならないと思うがとりあえず考えてみた。)
関税をはじめ政府による関門一切を撤廃し、個々の企業が自由に海外と取り引きする自由貿易体制をと
れば、そこに「神の手」が働いて国際経済を最良の状態にもっていってくれるはずだというのである。
高い関税障壁を設けている状態は、ある意味で世界全体の商業ネットワークのあちこちに検問所や料金所があって高速走行できない状態を意味し、貿易のエネルギーは最初から大幅に殺がれていることになる。
つまりそうした関門をすべて撤去してしまえば、貿易、というより世界全体の経済が拘束から開放されて、その本来のエネルギーをのびのびと全開できるはずである。
そうなれば世界全体が昔よりも富むはずだから、各国内部でもその経済規模が拡大することになり、政府としても関税収入こそなくなるものの、国内経済の拡大による一般の税収増大がその分を補ってくれるため、そうまんざらでもないというわけである。
完全な自由貿易の状態になった場合、その利益は誰の取り分となるのだろう。結論を先に言えば、理屈からする限りそれは特定の誰かの手に集中することなく、企業や消費者一人一人に広く薄く分配されることになる。それというのも基本的にこの体制のもとでは、消費者や企業が買いたいと思う製品や材料など一個一個について世界中から一番安いものを選択し、経済全体がコストの極小化を目指して動いていく。
そのため、その極小化の過程で生まれる差額の合計が、実は先ほどの貿易の利益に等しくなるのである。つまり自由貿易体制以前と以後で、個々の消費者や企業がどのぐらいコスト面で得をするようになったかを全体で合計すれば、それは理屈から言えば昔なら仲介貿易勢力が手にしていたような巨額の利益額に等しくなることになる。
自由貿易とは要するに「一番最初に二階に上がった者がはしごを引き上げてしまう」ことである。どういう意味かと言うと、それは産業競争力においてトップにある国が、後続の国々に追いつく望みを失わせるための制度に他ならないというのである。
実際、そうした後続の国々が追いつくための努力をしようにも、とにかくしばらくの間は国家がその産業を保護しないことには、海岸の波打ち際に砂の城を作るように、作るそばから外国製品の波に洗われて崩されてしまう。そのため当面それを保護するための防波堤が必要になってくるわけだが、ところが自由貿易とは、まさしくそうした保護のための防波堤を作ることを世界中で禁止する体制に他ならないのである。そのため、自由貿易を強要されて国家経済がまるごと壊滅した国の話は、経済史には枚挙にいとまがない。
(コメント)
結論からいって自由貿易という思想は、平均的な状態でいいやっていう妥協を実施する余地を残さない状態を示すのだろう。何かを1から育てて大きくするというのもあまり求めていない状態、要は最新の情報を持った即戦力が常に求められるということのようだ。国の収益もままならない。
自由貿易に移行したいという国はよっぽど自信があるというか攻めが好きな国なのだろうな。状態は1か0で、0.5はないのから。よっぽど強い国か背水の陣で望んでいる国くらいか。
でも自由貿易拒否するのは守りの国にとっては当たり前で日本なんかはその典型なのだろう。
上記の状態で考えると、国という概念がどこか壊れてきてしそうな感じさえする。
こんな歴史のシナリオが考えられそうである。
【前提】
国A、国B、国Cが存在し商品Aのシェアでしのぎを削っている。
国Aの製品Aが一番シェアを奪っていて国B、国Cは関税を設けてしのぎを削っている。
【工程】
①関税が取り除かれて自由貿易になる。
②国Aの大量生産された品質の良い製品が国B、Cに入り、シェアが国Aだけになる。
③国B,Cの即戦力の個人は国Aに移る。
④国B,Cは製品Aを扱えなくなり存在しなくなるか、国Aとして吸収される。
⑤国Aだけになる。
⑥国Aだけになったら国という概念はなくなり、個人が生まれる。
要するに強い国だけが生き残り弱い国は存在意義がなくなるということである。
ただ弱い国でも即戦力ある個人だけはその国に属さずに国Aに移住できそう。
恐らくこの時点でも国B、Cは残っていると思うが、それじゃ国ってなんだよっていう話になると、なんかよく分からなくなってくる。
自由貿易にシフトするとは、国が個人を保護しないことを意味するわけなのだから、より個人に責任がシフトされることを意味することを示すのは明白。
そんなとき個人は国に何を求めることができるのか?そもそも国はあるのか?
(国の存在については自由貿易以外の観点以外にもあるだろうし、複雑に入り組んでいる部分もあるとおもうのでこんなシンプルにはならないと思うがとりあえず考えてみた。)