坪内八郎 剣道範士八段

(長崎出身の政治家、教育者)

【海舟、心の剣】

 「斬られても、斬るな」と云って、

刀の鯉口に「松やに」をぬって、

明治32年、77才で死ぬまで、刀を抜かなかった、

維新の大人物たる、勝 海舟を、僕は最高に尊敬している一人です。

 海舟は御案内の通り、剣を縁者の、直心影流男谷精一郎に習ったが、後に例の島田虎之助の浅草新堀の道場で、

剣禅一致の教えを受けて、

免許皆伝の腕前となるが、

島田に、貴公は蘭学にも徹したがよかろうとアドバイスされているのです。

時代を見る島田も一介の剣客ではなかったのです。

ですから、海舟がほんとうに、精根をかたむけたのは、

剣と禅と蘭学であったようです。

剣では時に島田の代りに、各藩の出稽古も、つとめるし、

安政の幕府講武所発足には砲術師範までしているのです。

禅の体得では、

剣を抜かぬ、心の剣に成長し、暗殺に来た坂本龍馬を五分位で威圧し、坂本は友達まで連れて海舟の門人になっているでしょう。

海舟の妹御順は、(佐久間)象山の正室で、

(吉田)松陰がアメリカ密航計画の時は、

この御順さんが、大きな御握りを結んであげたと伝えられていますが、象山を京都で斬ったのは、

熊本の河上彦斉だったのに、海舟は、この河上が身近に居ったのに、これを斬らないのです。

全くこのことは、キリストの愛の如く、海舟の徹した禅であり、心の剣でしょう。

 

蘭学においても、当時蘭和辞典は、六十両という高価なものであったから、辞書の持ち主が、ねている間に5、6キロの夜道を通いつづけ、1年がかりで2冊写し取り、一部は自分の勉学用に、一部は売却して学費にしたとの事です。

これらは大変なことで、海舟は単なる一剣客ではなかったのです。

この人材であったから、西郷(隆盛)と対決し、

江戸城を無血開城せしめ、

徳川慶喜をして、30年間政治に口を入れさせなかった、慶喜の世を観る目もさることながら、これも海舟の影響と云っています。

 四十一俵扶持の御家人、勝 麟太郎が、のちに伯爵となり、77才で人生を完うするまでの、彼の波瀾万丈の足どりを見る時に、全く味のある剣客であり、政治家であり、蘭学者であり、又禅僧であったとも云えます。

 

 剣聖武蔵が、斬りまくって、悟道大成したが、海舟は時の刺客に、九回も襲われ九死に一生を得て、しかも斬らずにあの維新の大業をなしとげ、明治新政府の海雄の士としても、その鋭い能力を発揮したのです、

全く威なるかなです。

随ってある意味では、僕は、武蔵以上に高く評価しているのです。

 海舟夫妻の御墓は私共近くの、大田、洗足池べりにあって静かにねむっています。

今や剣道界は、関係各位の諸々の御努力によって興隆し、誠に喜ぶべき事です。

僕達、剣に宿命ある者として、

前向きの剣道の発展を祈り、

海舟の心の剣にあやかり、精進したいと念じています。

それは、剣の無我であり、佛の慈悲、キリストの愛、剣の妙法の極地でしょう。

 

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