インクルーシブ教育について思うこと。

 

まずは、今現在の教育システムや障害のある児童への主なサービス(サービス?合理的配慮?)についてです。

 

特別支援学校というものについて、大まかに区別すると、

・視覚障害

・知的障害

・聴覚障害

・肢体不自由

・病弱

の5つに分類されています。

 

また、特別支援学級においては、

・知的障害

・肢体不自由

・病弱・身体虚弱

・弱視

・難聴言語障害

・自閉症・情緒障害

の7種類(8対象)に分類されています。

 

なお、これらの障害は、単一での障害である場合と、2つ以上障害を併せ持つ重複障害である場合があります。

 

障害者手帳としては、

・身体障害者手帳

・療育手帳(知的障害)

・精神障害者福祉手帳の3種類があります。

等級があり、小さい数字ほど障害が重いということになっています。

これらを所持することで、日常の公共機関でさまざまなサービスを受けられることになっています。

 

サービス…合理的配慮ではないのかと思いますが、サービスとのこと。

 

私は、障害というのは、本人が望んで得たものではないと考えています。

であるなら、障害によって、本人が苦しんでいることに加えて、社会的にも差別されることというのは、

どうなのでしょうか。

 

児童や保護者は、小学校に入る前に、通常の学級か、特別支援学級か、特別支援学校かを選択させられることになります。

 

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/044/siryo/__icsFiles/afieldfile/2010/08/18/1296501_03.pdf

 

入学前に、保護者も児童も、地域の小学校への入学(特別支援学級も含む)か、障害がある児童が集まる特別支援学校への入学かを選択することになります。

 

どちらがいいとか悪いとかではないです。

ただ、別々になってしまうんだなと。

繰り返しですが、いいかどうかはわかりません。

 

幼稚園や保育園までの友達と離れ、成人式も別。

 

通常の学級でも、一緒にいても気持ち的に一緒にいないことを選択する児童もいると思います。

特に選択しなくても、別々になることは往々にしてあると思います。

 

だけど、障害の有無によっての強制的な別々は、違うように感じます。

 

特別支援学校に行った場合、仕事は、一般就労(障害者枠も)、就労継続支援A型、就労継続支援B型、就労移行支援、生活介護に分かれます。

調べると、障害手帳を所持していても、障害をオープンにするかクローズにするかを選択できるようです。

 

 

本当に仕方のないことなのか、健常者にとっての社会ならこそといいますか。

 

障害も自分で選んだことではないうえ、仕事も選べない。

 

社会の効率化や利便性は、どんな世界を目指しているのでしょうか。

 

高次脳機能障害というものもあります。

 

「高次脳機能障害とは、疾病の発症又は事故による受傷による脳の器質的病変に起因すると認められる記憶障害、注意障害、遂行機能障害、社会的行動障害、失語、失行、失認その他の認知機能の障害として政令で定めるものをいい、その患者数は全国で約23 万人と推計されています。
 高次脳機能障害は外形上判断しづらく、その特性の理解も進んでいない等の理由で、患者と家族は適切な支援を受けることができず、日常生活や社会生活に困難を抱えているとの指摘があります。」(厚生労働省HPより)

 

人はいつなんどき、自分がどうなるかわからない。

 

その時に、どんな社会で生きていたいか。

 

私は、インクルーシブ教育の考えは大切だと思っています。

 

同じように、お互いを尊重しあう社会であればいいなと思っています。

できること、得意なことを生かし、自分も相手も大切にして生きていければと思います。

 

分離からの統合。

 

できないから別、ではなく、できないこともお互いあるよね、お互い学ぼうよというか。

 

知的障害の重さや、精神障害の重さ、さらに肢体不自由との重複などによって、他者との

共存がかなり難しいことがあるのはわかります。

 

また、同じように、健常者として生きていても、他者を攻撃し、痛めつける人もいます。

 

教育の大切さを感じます。

教育、教養、共感力。

 

人は、残酷で同時に優しくて、両方の側面を持っていることが、余計に複雑に思います。

 

サピア=ウォーフの仮説(強い仮説・弱い仮説)のように、言語が思考を決定したり影響を与えるなら、

教育によって、様々な言葉や考え方を身に付けることによって、自分の思考を広げていけたらなと思うのです。

 

最近の「やばい、すごい」は、一言であらゆる感情を表します。

これはこれで、察する力も生まれているので、大切なのかもしれないですが、

そのあらゆる感情を別の言葉で表すことができると、より感情が明確になるのではないかと

思います。

 

あらゆる感情や表すべき対象を「やばい、すごい」で表してしまうとき、

思考はどのようにその状況を理解しているのでしょうか。

 

インクルーシブ教育、分離から統合。

本当の統合のためには、私自身の言葉から思考を広げることが必要なのかもしれないと思いました。