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八幡へ紅葉狩り(その5)
2025年11月29日(土)@八幡市
松花堂庭園・美術館(5)
松花堂庭園(続)
茶室【梅隠】
千宗旦好みの四畳半茶室を古図に基づいて松花堂美術館名誉館長の中村昌生氏が再現した。
その手前に【水琴窟】という案内板を発見。
地面に首だけ出している甕を探すが、それらしきものは見当たらない。あたりをうろうろしていると、梅隠でお茶会を開くという人たちが教えてくれた。水琴窟は甕じゃなくて、地面に埋められた竹だった。
竹の口に耳をつけると、澄んだ音が聞こえる。
昭乗垣
竹垣の奥に修復中の建物が見える。大阪北部地震で被害を受けた泉坊書院。
修復中だから通常は中には入れないが、この2日間だけ特別に階段を上って一部を見学できる。京都府の登録有形文化財。石清水八幡宮の僧房のひとつで、9畳の玉座の間と8畳の次の間などの遺構が明治31年(1898年)に上棟されたものだそうだ。修復後に改めて見る機会があるといいんだけど。
八幡へ紅葉狩り(その4)
2025年11月29日(土)@八幡市
松花堂庭園・美術館(4)
特別展:加賀藩の美術工芸と松花堂昭乗(続続)
石清水八幡宮は江戸時代に加賀藩と文化的な深いつながりがあった。特に、加賀藩2代目藩主・前田利常は茶の湯や芸術に造詣が深く、書画や茶の湯の名手である昭乗を高く評価し、深く交流した。さらに、昭乗の門人を自分の祐筆にするなど、その関係は深かった。そういう縁で、石清水八幡宮には前田家の書状や寄進状などが残っている。
また、この特別展では石川県立美術館からの出陳品も展示されていた。パンフレットに掲載されているものでは、松花堂角釜(前期出品だったので見ていない)と昭乗作の竹茶杓
沈金獅子文膳と堆朱布袋図香合
松花堂昭乗という文化人の深い教養とそれに裏打ちされた書画の世界、その精神性に引き寄せられた人々の交流の輪…。ひとりの人間を軸に空間方向にも時間方向にも豊かな世界が広がっていくのを感じた展覧会だった。
松花堂庭園
2万平米もの広い庭をぶらぶらと散歩する。だから見落としもたくさんあると思うけれど、それはそれで構わない。松花堂や泉坊書院のある内園とそれを囲む外園があるが、この時はそういうことは意識せず、順路があればそれに沿って、わからなければ適当に散策した。
入口
どことなく寂しい晩秋の庭。
空は抜けるように青い。
紅葉
池に鯉
八幡へ紅葉狩り(その3)
2025年11月29日(土)@八幡市
松花堂庭園・美術館(3)
特別展:加賀藩の美術工芸と松花堂昭乗(続)
そして、いよいよ昭乗の書画が登場する。この特別展の出品作全部の中で一番気に入ったのが、【鶏図】(部分)。出品リストの表紙に載っていたもの、カラーパンフに載せてほしかったな。
それから【雉子図】(部分)、パンフレットの表紙から切り抜いたので、ほかの作品が入り込んでしまった(残念)。
松花堂昭乗自画像写し(細合半斎)上に同じ。
細合半斎は江戸中期の儒学者で、書を昭乗の流れを汲む滝本流に私淑した。昭乗の死後100年近く経て生まれたので、もちろん直接会ったことはない。
法童坊孝以の見事な書もあった。彼は昭乗に書画を学んだ。特に、書に秀で、三の鳥居の銘文を書いたという。
松花堂といえば弁当。そのもとになる四つ切塗箱も展示されていた。
昭乗は、農家が種入れとして使っていた器をヒントに上のような器を作り、絵具箱や煙草盆として使っていた。それが松花堂弁当に発展するのは昭和の初めのころで、大阪桜宮の茶室【松花堂】の茶事の際に、吉兆の創始者となる湯木貞一がこの器で茶懐石の弁当を作ったのがはじまりだという。湯木は深さを深くし、汁気の多いものを入れる器を付け、蓋を用意して、今につながる弁当箱を仕上げた。松花堂の焼き印も入れたそうだ。
それが縁なのだろう、松花堂美術館には京都吉兆松花堂店がある。
それはともかく、この塗箱は19世紀(江戸時代)の作。朱漆と黒漆を塗り重ね、各面に水仙、燕、翡翠、菊が描かれている。弁当箱として使われるようになったのは昭和に入ってからなので、江戸時代は贅沢な煙草盆だったのだろうか。それとも菓子盆?
八幡へ紅葉狩り(その2)
2025年11月29日(土)@八幡市
松花堂庭園・美術館(2)
松花堂美術館は一見すると美術館というより市民センター風、というより市民センターなのかもしれない。美術館は地階にあって、エレベータで降りる。すると、別世界が広がっているのだ。
松花堂美術館は一見すると美術館というより市民センター風だ。地上階は講習室が館内は撮影禁止だったのだが、上のパンフレットが2つ折り4ページなので、そこから写真をコピーすることで作品を少し紹介できる。
松花堂美術館は松花堂昭乗や門人、交友に関する資料や作品をおよび八幡市にゆかりのある美術品や資料を収蔵展示するとともに、春と秋には企画展も開いている。
まずは松花堂昭乗についてビデオで学び、その作品を鑑賞する。
松花堂という名は松花堂昭乗(天正12年(1584年)~寛永16年(1639年))という石清水八幡宮に仕えた僧侶の名にちなむ。彼は、男山の山腹にあった僧房【滝本坊】の住職で、茶の湯、書、絵画に秀でた文化人としても知られていた。特に書で名を馳せ【寛永の三筆】のひとりに数えられている。彼は隠居後に男山の東麓にあった泉坊という宿坊に移り住み、その一画に草庵を建てた。その草庵を【松花堂】と名付け、自らも松花堂昭乗と名乗った。
明治の神仏分離により宿坊が撤去されると、松花堂と書院を現在の場所に移築した。松花堂およびその跡は国の史跡、松花堂および書院庭園は国の名勝に指定されている。
開催中の企画展はこれだった。大きな美術館みたいに常設展と企画展を分けるような展示にはなってないので、昭乗の作品を見た流れで、加賀藩の工芸品を見るという具合。
特別展:加賀藩の美術工芸と松花堂昭乗
まず、八幡市にゆかりのある作品や八幡市で出土した器などが展示されている。
上のパンフレットの表紙(の左上と右下)に載っている萩之坊乗円の【男山図】。乗円は石清水八幡宮の真言僧で昭乗の弟子、画は昭乗に勝るとも評された。
それから、もてなしの器。八幡南山焼といって、江戸後期から昭和にかけて断続的に作られた【幻のやきもの】だそうだ。
【祇園社遊楽図屏風】(部分)
パンフレットの表紙の四つ切塗箱の左と下にいる人々も多分この屏風から切り抜いたものだと思う。桃山から江戸にかけて人々が花見をしたり歌舞伎踊りをしたりという当時の最新流行を描いた遊楽図屏風が流行ったようだ。国宝に指定されているものもあるほどで。
八幡へ紅葉狩り(その1)
2025年11月29日(土)@八幡市
数日前、駅でこんなチラシをゲットした。
八幡は隣町で、石清水八幡宮には何度か参拝しているものの、松花堂庭園すら訪れたことがなかった。チラシを見ると、訪れたくなるようなお寺社が満載だ。
それで、秋の1日を八幡散歩に出かけることにした。
京阪の石清水八幡宮駅を出ると、目の前に観光案内所がある。もう少し情報をもらおうと近づくと、中から女性スタッフが出てきて、周辺観光散策マップをくれ、廻り方のアドバイスをしてくれた。まず駅前から京阪バスで【大芝・松花堂前】まで行って松花堂庭園を訪れ、そこから順にバス通りに沿って途中のお寺社に参拝しながら石清水八幡宮駅に戻るルートをとることにした。
松花堂庭園・美術館(1)
庭園をめぐる前に、美術館に寄った。草庵【松花堂】を営んだ松花堂昭乗や庭園についての基礎知識を得てから、庭園に赴く方が良いと考えたのだ。
庭園と美術館の共通券を購入。
パンフレット
嬉しい驚きだったのは、受付でポストカードをプレゼントされたこと。いくつかの種類から夫とわたしで1枚ずつ選ばせてもらった。
茶室【松隠】の花頭窓(秋)
草庵【松花堂】
八幡市の市政45周年記念2022のデザインマンホールが飾られていた。
八幡市出身のイラストレータ堀口悠紀子さんの作品で、これを含めて3種類あるそうだ。後で八幡市のホームぺージを見たら、3つのマンホールの設置場所が明記されていた。そのうちのひとつは石清水八幡宮駅の駅前広場だったのに、まったく気が付かなかった。そういう目で探さないと案外気が付かないのかもしれない。
ビアズリーを見に高知へ2泊3日(3日目その8・終)
2025年11月22日(土)@高知市
よさこい踊り
こちらに来て、こうち旅広場で土日祝日にステージでよさこい踊りの披露があることを知った。週替わりで様々なよさこいチームが踊るという。13:30開始なので、それに合うようにラーメン博から高知駅に戻った。
めっちゃかっこよかった!北海道の人たちがこれを見て、ソーラン節もこんな風にしたいとよさこいソーランを考案したという話を聞いていたけれど、その気持ち、よくわかる。高知に育ったら、わたしもよさこい踊りに夢中になっていたと思う。
ステージの裏に巨大な鳴子があった。
最終日を、当初予定していなかったラーメン博とよさこい踊り観賞で締めくくることができてすこぶる満足。休日に開催されるイベントもあるから、平日に旅行できる身分になったとしても休日を被らせることは大事だなと学習した。
アンパンマン列車
こんな風にぎりぎりまで遊んでいたので、特急にはぎりぎり飛び乗る形になった。それで、せっかくのアンパンマン列車(実は乗るときまで知らなかった)だったのに外装の写真がない。
車内の天井にアンパンマンたちがいた。
すっかり高知に魅せられて帰阪した。
ビアズリーを見に高知へ2泊3日(3日目その7)
2025年11月22日(土)@高知市
城西公園を出て、路面電車の枡形駅に戻る途中、江ノ口川にかかる円満橋のたもとでカンナが群生していた。
寺田寅彦記念館で大分時間を使ってしまったため、もう昼近かった。高知駅に戻って昼食をとることも考えたけれど、枡形で路面電車に乗っているときに、そういえばラーメン博やってるんだっけと思いついた。それで急遽堀詰駅で降り、会場になっている東洋電化中央公園に急いだ。
ラーメン博
チラシの上半分
最近は若い頃のようにラーメンを食べ歩くなんてこともなかったし、ラーメン自体あまり食べなくなっていた。
ラーメンは老若男女問わず人気。家族連れもカップルも部活買えりらしいジャージの中高生も… 何店舗出てるのかしらないけれど、どの店も行列ができている。席もいっぱいだ。とはいえ、ラーメンなので回転も速い。少し見ていると、近くの席があいた。席を確保して、チケットを買いに行く。
お店の名前は忘れてしまったが、静岡のラーメンだったと思う。美味しかった。
若い人たちは2,3杯は食べられるんだろうけれど、わたしはこれでお腹いっぱい。
箸袋を記念に持ち帰った。
ビアズリーを見に高知へ2泊3日(3日目その6)
2025年11月22日(土)@高知市
城西公園(再び)
行きは江ノ口川に沿って外周の道を歩いたが、帰りはせせらぎに惹かれて小川沿いの道を通ることにした。外周の道もゆるやかなS字を描いていたが、こちらも橋で小川を渡りながらS字を描いて続いていく。歩き進むにつれて見える景観がゆるやかに変わる。手入れしすぎない、ほどよく自然というか野性味を残したたたずまいも土佐の気風に合っているのかもしれない。
小川の端っこ。湧き水ではなく、地下水を利用して水位を保っているらしい。
京都のお庭を、良い意味で2周りくらいワイルドにした感じ。自然がのびやかに息づいている。
花梨の実?
とりどりに色づいた秋の木々の周りで、ボランティアの人たち10人ほどが手入れをしていた。ここののびやかな自然は彼らの手によって維持されている。
さらに進むと、緑地の様子が中国風になった。
蕪湖園と書かれた巨石がある。裏面に「中国の蕪湖(ぶこ)市との友好都市提携の調印を記念し、ここに蕪湖園を開園する 1985年4月 高知市長 横山龍雄書」と書かれている。【書】というくらいだからご本人の揮毫なのだろうけれど、きれいな字。
モニュメント【一衣帯水】:上の石碑から20年後に提携20周年を記念して、蕪湖市から贈られた。ふたりの少女が各々高知市と蕪湖市を指し、ふたりが履いている1枚のスカートの裾が水のように溶けあって一体化され、両市の友好を表現している。
なお、蕪湖市にも高知園という庭があるそうだ。
高知城の見事な石積みが残っている。
黄色に染まった銀杏並木
存在感のある木
ビアズリーを見に高知へ2泊3日(3日目その5)
2025年11月22日(土)@高知市
寺田寅彦記念館(2)
小一時間ほども、座卓に座って話を伺っていた。楽しい時間ではあったけれど、そろそろ室内を見学させてもらう頃合いだ。お礼を言って、席を立とうとすると、「ひとつお願いがあるのですが」と紙を差し出された。寺田寅彦を朝ドラにという運動の署名だった。わたしたちは快く署名した。牧野富太郎、やなせたかしに続けとばかりに運動しているのだという。すると、「実はライバルがいるんです。ジョン万次郎。桂浜の方でも署名をやってると思います」。
昨日桂浜に行ったけれど、ジョン万次郎を朝ドラへの署名は気が付かなかった。ジョン万次郎なら朝ドラより大河向きだと思うけれど。
座敷の床の間 わたしたちはこの前に置かれた座卓で話をしていた。
この座敷で、寅彦は最初の妻夏子さんとの結婚披露宴を行った。寅彦は若くて可愛らしい夏子さんを大切にしていたそうだ。
オルガン ベルリン留学の際に夏目漱石に預けた。オルガン自体が一種の芸術品だ。今でも弾くことができる。
寅彦の手紙
寅彦の絵画
旅行鞄
寅彦と彼の弟子中谷宇吉郎はともに小惑星の名前になった。
寅彦の有名なことば【天災は忘れられたる頃来る】が埋め込まれた石板
帰りがけに、玄関で二つのハンコ(レプリカ)を紙に押した。寅彦が自著の奥付に押印したハンコと自作の洋画にサイン代わりに押印したハンコだ。
また、寅彦記念館周辺のウォーキングマップをもらったが、そこに印刷されている高知が誇る偉人たちの銅像には恐れ入った。
銅像が好きな県民性というのもあるのかもしれないけれど、高知出身の偉人はこんなにいたのかと認識を新たにした。土佐藩は山内家が支配していたけれど、それ以前の長曾我部に対する敬慕の情や畏敬の念が山内家に対するそれに劣らずに強いことを感じた。
教科書でしか知らなかった寅彦に興味を持ったわたしは帰阪後俄然興味を持って図書館で文庫本を取り寄せて寅彦を読んでいる。手始めに【教科書名短編科学随筆集】を借りた。これには寅彦だけでなく、湯川秀樹や中谷宇吉郎などの随筆も載っていたが、圧倒的に寅彦は面白かった。それで続けて【読書と人生】【科学と文学】を読了し、今は【科学歳時記】を読んでいる。わたしの中でしばらくブームは続きそうだ。
とはいえ、いかんせん、ここで時間を使いすぎてしまった。大川筋武家屋敷や山内容堂はあきらめるしかないだろう。わたしたちは再び城西公園を通って、路面電車の枡形駅へ戻ることにした。
ビアズリーを見に高知へ2泊3日(3日目その4)
2025年11月22日(土)@高知市
寺田寅彦記念館(1)
google mapの言うとおりに行ったら、なぜか門ではなく、裏側から入ることになってしまった。変だなと思いながらも、【高知市指定文化財史跡 寺田寅彦邸跡と居室】という立札があったので、裏庭だったのであろうところから侵入した。
後で知ったことでは、この建物は寅彦の居室(勉強部屋)で、6畳間と四畳半くらいの板敷の間、それに縁側を備えている。母屋と茶室は昭和20年(1945年)の高知市大空襲で焼失したが、ここだけが残ったそうだ。移築後、平成元年(1989年)に改築された。
居室の前から母屋の裏側を見る。
空襲で焼ける前の寺田邸は、寅彦の父・利正氏が明治13年(1880年)頃に購入したもので、敷地は現在(404坪)より広く建坪は100坪を超えていたという。現在の建物は寅彦の長男所蔵の家相図や寺田家の人々の記憶や古写真をもとに母屋と茶室を復元し、居室を移築した。
寺田寅彦は、国語の教科書に随筆が採録されることでその名を知った人が多いと思う。明治11年(1878年)に東京で生れ、明治14年(1881年)に高知へ引っ越してくる。江ノ口小学校、県立尋常中学校を卒業後、熊本の第五高等学校へ進み、そこで教員をしていた夏目漱石と出会う。その後、東京帝国大学物理学科へ進学し、実験物理学を首席で卒業。ベルリン大学へ留学。東大地震研の教授や理研の研究員として働く。物理学者として250篇の論文を発表する傍ら、随筆や評論、俳句など文学にも多大な足跡を残した。
とはいえ、わたしは教科書に掲載された随筆しか読んだことがなかった。夫はずいぶん読んでいたようだったが。
ともかく、居室の脇を通って母屋の表に出て、改めて門を確認した。
門と塀は異なる石を使った石積み。門の石積みの石の組み合わせが芸術的。
石積み塀
門を入ってすぐ広がる枯山水庭園。これは母屋の復元時に作庭されたらしいのだが、植栽は寅彦の随筆を参考にしている。
庭を拝見していると、座敷の方から声がかかった。お誘いを受けて、母屋に上がらせてもらう。
パンフレット
母屋の座敷に座って、学芸員(?ガイド?)さんから話を伺う。彼女は心から寅彦に心酔しているようで「寅彦先生が、寅彦先生が…」とまるで直に薫陶を受けたように、嬉しそうに、寅彦に関するさまざまな逸話を話してくれた。中学校の早期入学試験に失敗するが、翌年優秀な成績で合格し、2年生に飛び級になったこと、中学を優等で卒業し、熊本の五高に無試験入学したこと、そこで漱石と出会ったこと、学生結婚した最初の妻が早世してショックだったことなど。
数冊の本を読んでいた夫とは話が合って、いつまでもしゃべっていた。
お茶室の前に置いてあった石





































































