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ビアズリーを見に高知へ2泊3日(2日目その12)

2025年11月21日(金)@高知市

高知城天守を降りた後

天守を降りると、詰門がある。本丸と二の丸をつなぐ役目を話す櫓門で、藩政時代は橋廊下と呼ばれていた。

 門内に侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されている。 一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵、二階は家老・中老などの詰所として用いられた。 

石段を下りていくと、山内一豊の妻(通称千代)と馬の像があった。一豊の像もあるらしいのだが、見なかった。というか、賢妻伝説によって夫より有名といってよい千代の像を見て満足してしまったというのが正しい。

賢妻伝説というのは、結婚の持参金10両で一豊に名馬を買わせ、それが信長の目に留まって出世の糸口になったという逸話から。また、関ヶ原の戦いの折に、笠の緒に縒りこめた手紙で、関東にいる一豊に豊臣方の情報を知らせたことがあり、それがきっかけで一豊に土佐が与えられたという。

この銅像は昭和40年(1965年)に除幕された。

 

板垣退助の銅像もある。

土佐が生んだ明治維新の偉人のひとり。暴漢に刺された際に叫んだという「板垣死すとも自由は死せず」があまりにも有名。

明治時代を代表する土佐出身者には、板垣のほかに、中江兆民、後藤象二郎、三菱の岩崎弥太郎、総理大臣になった浜口雄幸、幸徳秋水、大町桂月(「吾輩は猫である」にも登場する作家・詩人)などなどたくさんいるのだが、土佐とか高知という枠をはみ出して空間的にも時間的にも大きな絵を描いている人が多いという印象を持った。

大事な5年11月21日(金)@高知市

 

高知城天守を降りた後

 

天守を降りると、詰門がある。本丸と二の丸をつなぐ役目を話す櫓門で、藩政時代は橋廊下と呼ばれていた。

 

 

 門内に侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されている。 一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵、二階は家老・中老などの詰所として用いられた。 

 

石段を下りていくと、山内一豊の妻(通称千代)と馬の像があった。一豊の像もあるらしいのだが、見なかった。というか、賢妻伝説によって夫より有名といってよい千代の像を見て満足してしまったというのが正しい。

 

 

賢妻伝説というのは、結婚の持参金10両で一豊に名馬を買わせ、それが信長の目に留まって出世の糸口になったという逸話から。また、関ヶ原の戦いの折に、笠の緒に縒りこめた手紙で、関東にいる一豊に豊臣方の情報を知らせたことがあり、それがきっかけで一豊に土佐が与えられたという。

 

この銅像は昭和40年(1965年)に除幕された。

 

 

 

板垣退助の銅像もある。

 

 

土佐が生んだ明治維新の偉人のひとり。暴漢に刺された際に叫んだという「板垣死すとも自由は死せず」があまりにも有名。

 

明治時代を代表する土佐出身者には、板垣のほかに、中江兆民、後藤象二郎、三菱の岩崎弥太郎、総理大臣になった浜口雄幸、幸徳秋水、大町桂月(「吾輩は猫である」にも登場する作家・詩人)などなどたくさんいるのだが、土佐とか高知という枠をはみ出して空間的にも時間的にも大きな絵を描いている人が多いという印象を持った。

 

追手門の近くにある貴重な石碑

昭和9年(1934年)の国宝保存法により国宝指定された際の石碑。昭和25年(1950年)に現行の文化財保護法が施行され、現在は重要文化財になっている。これを残しておいた判断に拍手。

ビアズリーを見に高知へ2泊3日(2日目その11)

2025年11月21日(金)@高知市

高知城天守からの眺め

三の丸があった広場へ続く石段

三の丸があった広場ではためく日の丸

真下、本丸があるエリアを見下ろす

遠景に高知の町並みと山並み、近景右手に高知公園

 

しゃちほこ

しとみ戸

採光と通風を確保しつつ、敵の侵入を防ぐ。高知は雨が多いため、雨対策の意味もあった。

天守全体が総漆喰塗りであるのも、排水性や防水性を高めるため。

かつての高知城の全貌(模型)

お侍さんがいた。

こういう札が必要なのは情けない。

 

ビアズリーを見に高知へ2泊3日(2日目その10)

2025年11月21日(金)@高知市

高知城懐徳館(本丸)

本丸御殿は高知県に移管された後、懐徳館と名を改めて公開されている。この入口でチケットを買い、龍馬パスポートにスタンプを押してもらった。今回の旅ではスタンプをもらったのはここだけだったが(6個集めると次のステージに行ける)、有効期限は無いので次の機会のためにとっておこう。

懐徳館(本丸御殿)と天守

本丸御殿は城主が居住するところではなく、対面所として作られたもの。天守と同じく享保12年(1727年)の大火で焼失し、享保14年に再建された。

中に入ってまず目を惹くのが【欄間】。有名なのは本丸の二の間と三の間を区切る【打ち分け波の欄間】で、江戸中期の土佐の名工・武市甚七(土佐の左甚五郎の異名を持つ)の作と言われている。

土佐の荒波をシンプルに図案化したとのことだが、鯨の潮吹きやしっぽを思わせるところもあり、空間の多い大胆な構図はとてもユニークだし、モダンだ。

二ノ丸御殿と三の丸御殿から取り外した欄間もあった。特に、二の丸御殿の欄間は梅だと思うのだけど、立体的な木彫が枠からはみ出して勢いよく伸びている様が、枠にとらわれない土佐人の心意気を表しているようだ。

 

スギ円盤標本

説明板によると、高知城杉の段に生育していた杉が腐敗して倒木の危険があるため伐採した。その樹幹の一部で、地上7mあたりのもの。

中央に空洞があるため正確な年代はわからないけれど、樹齢約348年と推定されている。逆算して寛文6年(1666)頃に種子から誕生したと推測されている。年輪の様子から見て、享保の大火の痕跡は見当たらないという。

 

この後は天守に上った。

ビアズリーを見に高知へ2泊3日(2日目その9)

2025年11月21日(金)@高知市

高知城

高知城は、瓦や壁の色が鷹の羽の色に似ていることから鷹城とも呼ばれている。が、それ以上に高知城を有名にしているのは江戸時代に気づかれた天守が残る現存天守12城のひとつだが、かつ本丸の建造物が完全に残る唯一の城であり、本丸と天守が両方とも残る唯一の城でもあるからだ。

先に、浦戸城天守跡で書いたように、長曾我部家の後で山内一豊が土佐藩を治めることになると、彼は大高坂山で築城を初め、これが高知城になる。一豊が着手した城は彼の死後、慶長16年(1611年)にいったん完成するが、享保12年(1727年)の大火でほとんどが消失する。その後、宝暦3年(1753年)に再建され、現存天守は延享4年(1747年)に完成する。高知城の本丸と天守は幸いにも明治の廃城令を生き延び、太平洋戦争中の高知大空襲でも消失を免れたのだった。

 

石段を登っていくと、広場に出た。かつての三の丸御殿と二の丸御殿は廃城令により取り壊され(この時に残された15棟がすべて重要文化財に指定されている)、そこが今では春には桜が咲き乱れるであろう広場になっている。

いよいよ天守が近づいてきた。

三の丸があった広場から高知城を臨む。

手前の建物が懐徳館(本丸御殿)への入口。ここをくぐると二の丸があった広場に出る。

しゃちほこが置いてあった。

石垣が残っている。

廊下門:本丸と二の丸の間の空堀に掛けられた橋廊下で、両端が櫓になっている。現存するのは高知城のみだそうだ。

ビアズリーを見に高知へ2泊3日(2日目その8)

2025年11月21日(金)@高知市

高知城へ

【高知城前】で路面電車を降りる。遠くの高台に高知城の天守閣が見えるから、目指す方向は明らかだ。

高知城を中心にした高知公園とは道路を挟んで向かいに建つ高知城歴史博物館。土佐藩主山内家の資料や美術工芸品が収蔵されていて、寄れば絶対に面白いだろうに、その余裕がなかった。

道路から館内の一部を覗くことができる外観のデザインも面白い。

街灯にステンドグラス(?)の鳥が装飾されている。

旅行後に調べてみたら、高知県の県鳥である【ヤイロチョウ】をモチーフにしたものだという。高知県の指定天然記念物だそうだ。スズメ科の野鳥で、日本には夏鳥として飛来する。高知県には5月上旬に西部の山間部に営巣し、産卵、子育てを行い、10月に南に飛んでいく。写真を見たら、このモチーフのようにパステルカラーで彩られた可愛らしく美しい鳥だった。

 

天守閣を目指して石段を上る

追手門:寛文3年(1663年)に崩壊し、翌年改築した。

追手門をくぐり、順路に沿ってぐるぐると石段を登っていく。

石垣:雨の多い土佐の気候に合わせて、排水性に優れた野面積みにより、穴太衆が築いた。

石は近隣で採取される角閃岩などの自然石が加工されずに使われている。角閃岩は角閃石と斜長石からなり、黒から暗緑色の変成岩。緻密で硬い。

本丸や二の丸など16か所(現在確認されているもの)に排水用の石樋が設けられている。樋が上部から長く突き出しているのは、排水が直接石垣に当たらないようにするためであり、その下には水受けの敷石が配されている。

徐々に天守閣が大きくなってくる。

ビアズリーを見に高知へ2泊3日(2日目その7)

2025年11月21日(金)@高知市

高知駅に戻る

駅前広場から眺める高知駅

昨日は駅舎そのものをろくに見もしなかった。ところが、MY遊バスから降りて改めて見てみたら、気取ったところのないモダンな駅舎で驚いた。たまたまホームに電車が停まっていたのだが、駅舎の柱の間から車体の色が見えて、電車あっての駅のデザインということがわかる。

2008年に高架化されて、今のようなモダンなデザインになったそうだ。この大屋根は長さ約61m、幅約45m、高さ約23mで、【くじらドーム】という愛称で呼ばれている。

 

龍馬旅券(龍馬パスポート)

とさてらすの裏手(駅前広場がある)へ回り、をもらいに行った。龍馬旅券を受け取るには、とさてらすなどで申請用のはがきをもらい、龍馬パスに参加している施設を訪れてスタンプをもらう。異なる施設のスタンプを3つ集めたら、龍馬旅券の窓口に行く。

昨日こうち旅広場(とさてらす)と高知県立美術館でスタンプを押してもらい、今日龍馬記念館で3つ目のスタンプをゲットした。そして、青い旅券(最も基本的)を交付してもらった。

 

はりまや橋の交差点で

パスポートを持って高知城に向かう。はりまや橋で路面電車を乗り換える際に、はりまや橋界隈をざっと見て回った。

ここには高知に縁のある像がいくつかある。

赤いはりまや橋の傍にアンパンマンとジャムおじさん

道路を挟んで反対側にバイキンマンとドキンちゃん

そして、明治のはりまや橋(エメラルド色)の手前には2頭の鯨と【南国土佐を後にして】の歌詞の碑

午前8時半から午後8時半の間の毎時30分に「南国土佐を後にして」の曲が流れ、鯨が潮を吹くというので、見たかったのだが、滞在中時間が合わなかった(とても残念)。

この近くの交差点のビルに掛けられたからくり時計からは毎正時に「よさこい節」が流れて、人形が登場する。それは見ることができた。

ビアズリーを見に高知へ2泊3日(2日目その6)

2025年11月21日(金)@高知市

坂本龍馬像

桂浜の松林を抜けると、龍馬像がそそり立っていた。いきなり人が増えた。

下から見上げる龍馬像

像の高さは約5.3m、台座を含めると13.4~13.5m。

背ろ姿

背後の銘板には、昭和3年5月建立であること、原型、助手、鋳造、台座工事の関係者の名が刻まれている。原型を作ったのは本山白雲、高村光雲の弟子で、この像は白雲の代表作とされている。

龍馬記念館に入るときに買ったセット券で、【龍馬に大接近イベント】に参加した。

これは、龍馬像のすぐ脇に、龍馬の顔の高さまでの足場(展望台)を組み、真横から龍馬をみることができるという企画。龍馬は誕生日も命日も旧暦の11月15日のため、この日に最も近い日曜日に龍馬祭りが開かれ、この時期には龍馬にちなんだイベントが企画されている。これはそのひとつ。

いかにも仮設の階段を4階分くらい上ると、龍馬と並ぶくらいの高さになる。

こんな感じ。

龍馬が見ている太平洋の光景は、というと…

ここから四方八方を眺める。

 

龍馬像から海のテラスへ出て、そこで昼食にした。昼食は海鮮丼。わたしはカツオ、夫はカツオとシラスの丼にした。

桂浜から高知駅に戻る際はMY遊バスでなく、とさでん交通のバスにしたいと思っていた(MY遊バスの1日乗車券では片道だけとさでん交通のバスを使用できる)。MY遊バスとはルートが違うから面白いと思っていたので。でも時間が合わず、帰りもMY遊バスになった。

ビアズリーを見に高知へ2泊3日(2日目その5)

2025年11月21日(金)@高知市

椿の小径

龍馬記念館を後にして、桂浜へ向かう。バス停から上がってきた道を下っていくと、上がってきたときには気づかなかった石碑に気が付いた。

説明板によると、これは高浜虚子の句。「海底に珊瑚 花咲く 櫨(はぜ)を釣る」。虚子は松山の生まれだが、この句は昭和24年(1949年)に高知市で開催された俳誌【龍巻】の200号記念大会に際して海路来遊した折の一句だという。船から海を覗くと、海の底で珊瑚の花が揺れている。そんな海底の幻想的な風景ときわめて日常的なハゼ釣りのコントラストが面白い。周囲に咲いている黄色い花はツワブキ。

 

自動車道から脇道が延びている。【椿の小径】というらしい。どうやら桂浜まで続いている。

整備された遊歩道なので歩きやすい。林の中を歩いていると、左手に朱色の鳥居が並んでいるのが見えた。桂浜稲荷神社(通称 龍馬稲荷神社)だという。

右下に見える自動車道からも上がって来られる。わたしたちは参拝せず、桂浜へ向かった。

桂浜到着(めちゃめちゃ逆光!)

 

 

ビアズリーを見に高知へ2泊3日(2日目その4)

2025年11月21日(金)@高知市

坂本龍馬記念館

で、いよいよ坂本龍馬に会いに行く。彼の記念館の前には彼の像がある。懐手をして太平洋の彼方を見つめるあの有名な像(桂浜にある)ではなく、来館者と握手すべく手を差し出し、若干高いところから心持ち目線を下げて来館者と目を合わせようとする像だ。龍馬のイメージっぽくないけれど、喜んで握手する。背後に写っているのが記念館。

この日は24日(日)まで【龍馬に大接近】(後述)というイベントをやっていて、記念館とのセット券があったので、それを購入した。

記念館のパンフレット

現在の建物は平成30年(2018年、明治維新150周年!)にリニューアル開館されたもので、龍馬関連の資料のほか、ジョン万次郎の展示室もある。龍馬ファンが訪れる場所にふさわしく、屋上は太平洋を見晴るかす展望台になっている。

入館すると、まず、シアター室で龍馬の人生の概要を学ぶ。高知市の子どもたちはおそらく全員が遠足で訪れるであろう場所なので、子どもたちにもわかりやすい説明と子ども向けのパンフレットが用意されていて、それが大人の初心者にもわかりやすい。

龍馬の有名なセリフのひとつ「日本を今一度洗濯いたし申し候」(姉の乙女への手紙、日本の変革を誓う)を軸に、龍馬の業績というか驚嘆すべき行動力とその成果について、ビデオは説明してくれる。土佐を脱藩した龍馬が土佐を見捨てたわけではなく、そのことを土佐の藩士たちもよくわかっていて、龍馬を支えてきたことなど、土佐という土地の気質でもあるのだろうけれど(だからジョン万次郎のような人も生まれたのだろう)、高知に来て胸にすとんと落ちるものがあった。

ところで、龍馬の成し遂げたことといえば、亀山社中(後の海援隊)を作り、薩長同盟を実現させ、船中八策を考案して大政奉還への道を付けたことが浮かぶが、考えて見ればそのどれひとつとっても神業級のプロジェクトだと思う。この龍馬の考え方が西洋風の考え方を取り入れつつ、日本の独自性を失わなわず、列強の餌食にならずに、日本という統一国家として生き残るという明治のメインストリームを構築する大きな推進力になったのだろう。

とはいえ、なぜ龍馬にはそれが可能だったのか?

この時の企画展のテーマは、残された膨大な資料から、幕末から明治にかけて龍馬と縁のあった人々が龍馬のことをどのように見ていたかに焦点を当てた文書を展示している。

それを読んでいると、龍馬が何を考えていたか以前に、龍馬の人柄に周囲の人々が惹きつけられ、とりわけその笑顔にやられてしまったということがよくわかる。そして、高圧的なところはなく、ゆったりと構え、ゆったりと話す、自然に器の大きさを感じさせる人であったようだ。新しもの好きの龍馬というのとは異なるイメージがそこにはある。

ジョン万次郎の展示室も面白かった。貧しい漁師の子どもで読み書きもできなかったジョン万次郎が難破してアメリカに流れ着き、行きがかり上捕鯨船員となることで、生来の頭の良さを買われていく様子など、封建社会の日本にいたらできなかったであろう出世をしていくのはどれほどの苦労だったかということを考慮に入れてもなお爽快だ。

漂流していたジョン万次郎たちを助けてくれた捕鯨船ジョン・ハウランド号

屋上から太平洋を臨む。

ビアズリーを見に高知へ2泊3日(2日目その3 )

2025年11月21日(金)@高知市

浦戸城天守跡

MY遊バスを龍馬記念館前で降りた。一緒にバスを降りた人たちの後について、バス停から記念館までの道を歩く。記念館前の広場の向かいに気になるものがあった。高知市史跡浦戸城と書いてある。

その背後に、こんもり茂った小山が控えている。

浦戸城と書かれた石碑の左側に石段がある。試しに上ってみた。それほど登ることもなく、開けた場所に出た。2つの小さな祠がある。大山祇神社と城八幡の祠である。

説明板によると、ここが浦戸城の天守跡ということだ。

浦戸城は長曾我部元親が10年にわたって拠点とした城。石垣の名残も見られる。長曾我部家はあと一歩のところまで四国を統一したが、秀吉に敗れて、土佐を治めることとなる。秀吉の死後、関ヶ原の戦いで西軍に参戦して敗北し、大名としての長曾我部家は滅亡する。その後、江戸時代に入り、長曾我部家の後を継いで土佐に入ったのは山内一豊で、最初は浦戸城に入城したが、後に高知城を築城して、居を移している。そういうわけで、浦戸城は廃城になった。高知城築城の際の資材として浦戸城の部材が使われたり、現代になって国民宿舎や龍馬記念館ができたこともあって、遺構はほとんど残っていない。

説明板に載っていた浦戸城の略図(高知県立図書館所蔵)

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