☆ 唐古・鍵遺跡
大和国城下郡
奈良県磯城郡田原本町唐古・鍵
(東側にP有り、道路向かいの西側に「道の駅レスティ唐古・鍵」有り)
弥生時代の大規模集落跡「唐古・鍵遺跡」。かつては日本を代表するものとして、もっとも知られた遺跡でした。「吉野ヶ里遺跡」が発見されるまでは…。
訪れたのはおよそ10年ぶり。遺跡横の国道はしばしば車を走らせ、常に遺跡を眺めてはいるのですが。
いつの間にかきれいに整備され、道の駅が隣接して設けられました。週末ともなると広々とした子供の遊び場として、日頃の運動不足のウォーキング場として大いに賑わいます。
人のいない時を…と考え、
遺構展示情報館が休館で公園も一応休園日となっていて、さらに今にも雨の降りだしそうな、平日月曜を狙って訪れました。
他に来ていたのは5~6人ほど。おかげで遺跡公園の隅々までゆっくりと歩き回ることができました。
◎弥生時代前期初頭~古墳時代の複合遺跡。
◎遺跡は「国の史跡」に指定
◎面積は40㌶(42万平方キロメートル、甲子園10個分)、墓地など関連施設を含めると100㌶。
◎弥生時代中期前葉には環濠集落が形成され、集落域は400m前後もある。何重もの濠が巡らされ、外濠は幅10m深さ2m、内濠は幅5m深さ0.5m。
◎弥生全時代の土器が出土し、畿内の土器編年の基準となっている。絵画土器が多く見られ、全国約600点のうち当遺跡から約350点が出土。近隣集落からも50点が出土。
◎その絵画土器に描かれる楼閣から復元されている(ただしこの楼閣の遺構は発見されていない)。
◎絵画土器は主に祭祀用であったと思われ、これほどの出土量を鑑みると、この遺跡が日本の中心であったとも考えられる。
◎土器は全国各地からもたらされているが、前期から中期前半は東海から、中期後半は吉備からが多い。特に吉備からは大型器台が出土。交流関係が注目される。
◎ヒスイ勾玉等のヒスイ製品が7点出土。
◎銅鐸を含めた銅製品が多く出土。銅鐸は工房跡も発見されており、大量に製作され各地へ配布されたとみられる。
◎木器・石器・土器・青銅器・織物など、これまでの発掘成果では日本最大の「モノ作り」集落であった。
◎出土遺物はすべて国の重要文化財に指定。
◎纏向王朝の出現とほぼ同時に忽然と姿を消す。
書き出すとキリがないのでこの辺りまでで。
いつでもすぐ行けるようなところに住んでいると、どうしてもこの遺跡の偉大さを見落としがち。また近年は「吉野ヶ里遺跡」に注目が集まりますが、過去に質量ともにそちらを凌ぐ発見がありました。もっと注目せねば!
個人的な関心は邪馬台国、纏向王朝、神武東征といった3要素の関わり。「邪馬台国畿内説」の中心は纏向地方であり、唐古・鍵遺跡からはわずか東方4~5kmほど。
桜井纏向学センター長の寺澤薫氏は興味深い説を挙げています。纏向は王都であり、唐古・鍵遺跡が邪馬台国だったのではないかと。纏向には人の居住した跡が見られないようです。
また唐古・鍵遺跡に居た人々は、神武東征と大和平定を知っているはずなのです。八十梟軍との大決戦を知っているはずなのです。或いは同じ部族なのかもしれません。
ここで大きな鍵となるのが銅鐸。おそらくは長髄彦を首長とし、大和盆地を広く治めていた部族であろうと考えます。そして「三輪山」に鎮まる事代主神(大物主神)を奉斎していたのだろうと。
長髄彦の妹、三炊屋媛命が東遷してきた饒速日命に嫁ぐことにより、連合政権がなされました。銅鐸の分布は長髄彦の裔が拠点とした地、饒速日命が東遷してきた経由地、裔の物部氏が移住した地と符号します。
神武東征軍と長髄彦軍とは対峙したのか、或いは主従関係を結んだのかは定かではないものの、裔は志貴縣主として天皇家に后妃を輩出する氏族となりました。
ところが崇神天皇の纏向王朝が興るや、唐古・鍵遺跡を本拠地としていた長髄彦の裔は大和を追われます。そうして唐古・鍵遺跡は消滅。
ところが「三輪山」の祭祀氏族が不在となり、大物主神が大いに祟りました。崇神天皇は慌てて長髄彦の裔である大田田根子を探し出し、神主として奉斎を復活させ大物主神の怒りを抑えました。おそらくはこのようないきさつがあったと考えています。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。










