八嶋神社 (奈良市内侍原町)


大和国添上郡
奈良市内侍原町42
(P無し)

■祭神
八幡神


「奈良町」二百五町の一、「内侍原町(なしはらちょう)」の奥まった地に鎮座する社。
◎「内侍原町」は「奈良坊目拙解」(享保二十年・1735年)に、
━━古書に「梨子原」の字を用いているが後に「内侍原」に改められた。奈良時代よりこの名があり、一千年に及ぶ旧所である━━(大意)
とあります。さらに、
━━太古に梨子の樹が数株存在したことに因む名であり、天平勝宝元年(749年)に宇佐八幡大神を東大寺に奉迎した際に、行宮を「梨子原」に造り、「梨子原行宮」と名付けた━━(大意)
とあります。
◎そして古老談として「八幡」の字が「八嶋」として伝わったと。社頭案内には旧号は「梨原宮八幡宮」であったとあります(典拠不明)。
◎ところがこの「梨子原行宮」は続紀に、
━━八幡神は平群郡(現在の大和郡山市の南部)から入京。平城京の南「梨原宮」に神殿を造り神宮とし、八幡神を迎え祀った━━とあります。
この「平城京の南」という地に、平城京の北東部である当社地には合致しません。他に候補地として庭園や遺構群が発見された「平城京左京三条二坊宮跡公園」も上げられていますが、こちらも「平城京の南」とは言えず(南北でいうと真ん中近く)、異なる遺跡ではないかと思われます。さらにもう一箇所の候補地、薬園八幡神社こちらこそが真の「梨原宮」ではないかと考えます。
◎「梨原宮」跡が「内侍原」となったことについては「奈良坊目拙解」に上記に続けて、
━━貞観年間(859~877年)以降、「春日祭」が2月申日と11月申日に上卿が諸司使、内侍等と行った。これより後世の人は「内侍原」の文字を用いた。「梨子原宿所」は元来、近衛府の領地である。当時の旧跡は悉く変改して行宮の遺蹟が少しばかり残るのみである━━(大意)とあります。古文の読解の問題があるものの、「内侍」という女官たちが「春日祭」に関わっていたことからの「内侍原」の地名かと思われます。
◎一方で「奈良曝」(貞享四年・1687年)には、「内侍の官なりし人の住み給ひしより町の名とすとも云」とあります。
また社頭案内には、「春日祭に勅使として参勤した宮中の内侍が宿泊した」とあります(こちらも典拠不明)。
◎これらをまとめると、「梨原宮」はやはり薬園八幡神社の地であり、当地がかつて「梨子原」と呼ばれていたという歴史はなく、これは「奈良坊目拙解」の誤り。貞観年間の「春日祭」において「内侍」たちが関わるが、彼女たちが居住していたのが当地だったのではないかと。このように考えます。


北側からこの細い路地を進みます。

袋小路で奥に鎮座。


ご本殿は二体の御神木に挟まれています。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。