私が40歳で胃全摘手術後腸閉塞に苦しみぬいている頃、「家族主義の会社」のはずの上司からお荷物扱いされ(これが家族主義か・・と)と人間不信に陥っていました。そのとき星野さんの詩画集『鈴の鳴る道』に出会い衝撃を受けました。

 スポーツ万能で逞しい山男が一転、絶望的な境遇に陥りながらも、お母さんの渾身的な愛、絶望の中でのイエスの救い、神の使いのような「渡辺さん」との出会そして結婚・・星野さんの苦悩と周囲の暖かい愛に自らの魂を清め高めていく様が克明に描かれていました。決してきれいごとだけではない、星野さんの心の中の嫉妬や反感や葛藤、そしてそういう醜い心への自己嫌悪、そこから湧き出てくる珠玉の言葉、それを口にくわえた絵筆に託して1カ月かけて制作される花の絵・・「そういう心の変遷が一枚一枚に込められているから万人の心に響くのだ! 私も星野さんのように真直ぐ生きたい!」 と勇気づけられました。

 後期高齢者の仲間入りした今また「角膜内皮ジストロフィー」という、角膜内皮細胞が急激に壊れていき、やがて失明するという奇病に罹りました。米国輸入角膜しかなく保険適用外で1回50万円! 3月に手術しましたが失敗、再手術することになりました。目が不自由になって初めて「見えることの有難さ」を痛感します。

 こういう不安の中でも、星野富弘さんの詩画作品を見ていると不安は吹き飛びます。希望に満ちた24歳の中学体育教師が、一転首から下が動かず感覚がない過酷な運命に・・それを乗り越えて76歳まで、口で加えて描く詩画で人々に勇気と希望を与え続けました。今回はその珠玉の作品の紹介です。⇒

 

 この詩画集は、星野さんが首から下の自由が奪われてから十数年の思いが、美しい花と心を打つ詩でつづられています。電動椅子で移動できるようになり、9年ぶりに自宅で生活を始めた星野さんは、最初デコボコ道は脳味噌がひっくり返るような振動で嫌いだったそうです。ところがある人からもらった鈴を車いすにぶら下げてデコボコ道を通った時、振動で鈴が「チリン」と心にしみるような澄んだ音色を鳴らしました。そしてこう思ったそうです。 「暗い気持ちで通っていたでこぼこ道も、小さな鈴がチリンとなっただけで幸せな気分になれる。人はみんな、この鈴のようなものを授かっているのではないか。私の心の中にも小さな鈴があると思う。その鈴が澄んだ音色で歌い、キラキラと輝くような毎日が送れたらと思う。私はこれから行く先のでこぼこ道を、なるべく迂回しないように進もうと思う」

 

2.『限りなくやさしい花々』では、小学生にも読めるように易しく書き下ろし、幼少から怪我をするまでの元気な日々、そして入院生活でのお母さんの親身の介護、病院スタッフの暖かい支援、そして聖書の出会いと、妻となる渡辺さんの8年に渡るお見舞いと心の交流、そして結婚! がつづられています。


3.「あじさい」

 私が胃癌の手術をした40歳のある日、手術後の癌再発不安でイライラしている頃、家内に「この詩が大好き」と見せられたのが「あじさい」です。
 一生寝たきりで食事も排便なども自力ではできない星野さんを見舞い世話を続け、8年後に結婚した「渡辺さん」その天使のような奥様が「あなたが痛がらないように結婚指輪はいらない」と言われた! それを感謝しながらじっと妻の指を見るだけしかできない星野さん・・何という優しさに満ちた夫婦愛!思いやり!・・翻って私のなんと情けない姿か・・と

 

4.「あやめ」

星野富弘さんの詩画は、ただ美しいだけではありません。私達の心の奥底に沈む嫉妬や葛藤を直視した悩みや自己嫌悪や反省からにじみ出た思いが言葉に凝縮されています。この「あやめ」の経緯がそれをよく物語っています。


【群馬大嶽病院の整形外科病棟には星野さんと同じ重度障害の患者ばかりで、その中にスキー大会で転倒して四肢が全くマヒした中学生のター坊がいました。茶目っ気な可愛い子でした。
「こんな純真な小さな子供が、どうしてこんなつらい目にあうのか・・と、神に祈るような気持ちで回復を祈った」
 ところがある日、ター坊の腕が少し動き、わずかながら足も動いた。やがて排泄感覚も戻り、食事も自分で出来るようになった。ター坊は見違えるように元気になり、あどけないユーモアで部屋中を笑わせた。ター坊は私を兄のように慕い、お見舞い品なども二人で分け合って食べた。しかし、そうしながらも私の中にどうしようもない寂しさが芽生えてきた。それは嫉妬であった。
「喜べ! ター坊の回復を心から喜べ。おまえはそんなみみっちい男ではない筈だ!」
 私は叫ぶように自分に言い聞かせた。私は悲しい心をもって生まれたものだ。周囲の人が不幸になると自分は幸福だと思い、他人が幸福になると自分が不幸になってしまう。・・たった今、ター坊の回復を心から喜べる私になれたら、私の顔はどんなに明るくなるだろう】

 

5.どくだみ

この詩は9年間の病院生活から自宅に戻り、近くのドクダミを見て作られました。
【私はドクダミが嫌いでした。変なにおいがするし、どす黒い葉、ミミズのような赤い茎・・でも私は車いすに乗るようになって大事な事を知りました。
 元気だったころは、体の不自由な人を見れば可哀そうとか、気味が悪いと思っていましたが、自分が車いすに乗るようになって、体が不自由な自分を不幸だとも嫌だとも思わないのです。不自由な人を見てすぐに不幸だと決めつけていたのは、私の心の貧しさでした。だからドクダミを見たとき私は ”自分の貧しい心で花を見てはいけない” と思いました。その時からドクダミが美しく見えるようになったのです。】 

6.ぺんぺん草(母の肩をたたきたい)

 星野さんは、貧農の苦しい生活の中でお母さんの内職・仕送りで群馬大学の寮生活を送っていたとの事です。
 息子のトンデモナイ大事故で一番ショックを受けたはずの母、、そのお母さんの必死の看病で漸く首から上が動くようになり、お母さんの介添えで念願の文字や絵を描くようになります・・その息子の為にスケッチブックを持ち、絵筆に要求される絵の具をつけ・・この素晴らしい詩画の陰には限りないお母さんの愛があります。
 その母親の苦労を思い「神様、一日でよいから腕を動かせるようにしてほしい。母の肩たたきをしてあげたいから・・」と思われる星野さんの親子愛に涙します。 

7.アケビの花

 【私もあの場面にいたら、きっと逃げ出したでしょう。弱い自分の本性を見るようで身につまされます・・
 最後の晩餐で「この中に私を売る者がいる」とイエスが語った時に「私はそんなことはしない!」といぶかった12使徒
 ゲッセマネの園でイエスが最後の祈りをささげる時「寝ないで私を待っていなさい」と言われたのにみんな寝てしまった12使徒
 兵士が捕縛に来た時「私は先生と共にある」と誓ったのに全員逃げてしまった12使徒
 中でも高弟のペトロには 「おまえは鶏が鳴く前に三回私を知らないと言うだろう」と悲し気に予言され「そんなことはありません!」と断言しました。なのに捕縛にきた兵士に女が「この人もイエスと一緒にいた!」と訴えられると「私は知らない。人違いだ」と三回答えて、すぐに鶏が3回鳴いて朝を告げた。その時イエスの言葉を思い出し、自分の情けなさに号泣するペトロ・・きっと私もペトロと同じ行動をとると思います・・

8.イチジクの木

「ザーカイ、急いで降りてきなさい」と、まるで迷える私たちにイエスが呼びかけているように思えます。星野さんも、イエスに魅かれる自分の姿がザーカイと重なったのでしょう。
 ザーカイは、新約聖書に出てくる取税人です。もっとも卑しまれる仕事で、しかも不正に税を取り立てていたので人々に憎まれていました。それでもイエスの話を聴きたくてイチジク桑に登っているのを見たイエスは「降りてきてここで話を聴きなさい」と席を作ったのです。悪人でも見捨てず優しく説くイエスに神の愛を感じたザーカイは、以後人々のために働く者となりました。

9.竹林

 この絵は、人々の罪を背負って十字架にかけられたイエスの犠牲を、星野さんの視点で私たちに教えてくれています。自然の営みの中に、神のみ恵、神のみ業を感じ取る星野さんの感性・表現に、改めて「神様に選ばれた人」という思いを強くします。

10、「おだまき」(1986 鈴の鳴る道】

 星野富弘さんの人生は「命よりも大切なもの」を私たちに教え続けた人生でした。

「この詩の花に、星野さんはなぜオダマキを選ばれたのだろう?」と思います。ご自宅の周囲にひっそりと咲くオダマキを見て自然にそう感じられたのでしょうか。恐らく富弘さんの奥様の無償の尊い愛と「恋しい義経を偲び 源頼朝の前で刑死を覚悟して踊った静御前」とが重なったのではないでしょうか。

「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ恋しき」

「しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」

11.こぎく

 この詩はイエス山上垂訓そのものです。きっと星野さんはイエスと同じ思いで人々に真の愛を伝え続けたのでしょう。
「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。
 柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(マタイによる福音5章1節‐12章)

12.晩年の星野富弘さん

<星野富弘プロフィール>
1946年 群馬県勢多郡東村に生る
1970年 群馬大学卒業 中学校教諭になるがクラブ活動の指導中頸髄損傷手足の自由を失う
1972年 口に筆をくわえ文や絵を書始める
1979年 前橋て最初の作品展
  〃  退院
1981年 結婚
1982年 高崎て花の詩画展 以後全国各都市での誌画展は感動を呼び入場者は100万人以上
1991年 東村立冨弘美循館開館開設 ブラシル各都市てリトグラフ作品を中心に花の詩画展
1994年 ニューヨークて花の詩画展
1997年 ハワイて花の詩画展
1999年 東村立冨弘美術館の入舘者が300万人
<著 書>
愛、深き淵より。 (立風書房)
風の旅 (立風書房)
鈴の鳴る道 (偕成社)
かぎりなくやさしい花々 (偕成社)
銀色のあしあと・三浦綾子との対談 (いのちのことば社)
透さのちがう時計 (偕成社)
あなたの手のひら (偕成社)

 

【私の星野富弘さんとの出会い、魂の救済を受けたあゆみ】

 私は35年前、40歳人間ドックで胃癌と診断され、すぐ胃全摘手術を受けましたが・・小腸が癒着し お粥でも腸閉塞を起こし入退院を1年間繰返しました。そういう半病人のときM室長から名古屋建設現場の単身赴任を指示され「とても無理です」と断ると「精神力が弱い。禅寺に行って修行したらどうだ」とお荷物扱されました。「一番苦しい時に鞭打つ、これが当社の家族主義か・・」と、私は人間不信に陥っていました。

 丁度その頃、星野さんの詩画集『鈴の鳴る道』に出会い衝撃を受けました。逞しい青年が突然絶望的な境遇に陥る・・しかしお母さんの渾身的な介護、絶望の中でイエスの救い、天使のような「渡辺さん」と出会い結婚・・星野さんの苦悩と周囲の暖かい愛に自らの魂を清め高めていく様が克明に描かれていました。決してきれい事だけではない、星野さんの心の中の葛藤や嫉妬や反感、そういう醜い心への自己嫌悪、そこから湧き出てくる珠玉の言葉、それを口にくわえた絵筆に託して1カ月かけて制作される花の絵・・「そういう心の変遷が一枚一枚に込められているから万人の心に響くのだ! 私も星野さんのように、周囲に振り回されず自分の道を真直ぐに歩こう!」 と勇気づけられました。

 

<私の腸閉塞は再手術で完治。ちょうど北海道で1,500億円規模の大PJ工事があり、かの上司の顔を見たくない私は、人事発令なしにPJに飛込み大歓迎を受けました。そして最新技術を取入れながら数十億円のコスト削減を実現し、T社長は「生涯賃金を十回分稼いでくれた」と評価、リベンジを果たしました。ただ生活給の会社ゆえボーナス加増はありませんでしたが・・笑>