Facebook上で見つけた記事の一部です。こちらでも読んでほしいと思い転載します。


「大川小学校の生徒が書いた自衛隊への感謝の手紙」

じえぃたいさんへ。
げん気ですか。
つなみのせいで、大川小学校のわたしの、
おともだちがみんな、しんでしまいました。
でも、じえいたいさんが
がんばってくれているので、
わたしもがんばります。
日本をたすけてください。
いつもおうえんしています。
じえいたいさんありがとう。

               うみより

一人の隊員(石井3曹)が受け取ったこの手紙。

この手紙は、またたくまに隊員の間にコピーされ、再び隊員たちを奮い立たせたらしい。
中にはこの手紙をコピーして、手帳に挟んで励みにした隊員もいた。

石井3曹に封筒を渡した少女は、名前も告げずに走り去っていった。
少女は、母親と思しき女性の運転する車でやってきて、偶然近くを歩いていた石井3曹にこの手紙を渡したのである。

石井3曹は込み上げるものを必死で堪えた。
「胸がいっぱいになりました……。あの頃は、発災から1か月が経とうとしており、疲れもたまっていたのですが、
あの手紙で、『明日からも頑張るぞ!』と皆、勇気が湧いてきたのです。
そして自分たちのやっていることが人々のためになっているんだ、とあらためて認識しました」

その後、この手紙は第14旅団長・井上武陸将補の陣取る女川の指揮所に届けられ、たちまち各派遣部隊に伝わった。

井上旅団長は言う。
「手紙を見た時は、もう体中の血が逆流するほどの思いでした。『よし、どんなことがあっても全員を捜し出すぞ!』という思いが漲ってきましたよ。
うみちゃんは、どんな思いでこの手紙を書いてくれたんだろうと思うと……」

利府町の加瀬沼公園に宿営地を設営した北海道の第1高射特科群のある中隊指揮所にも、この手紙のコピーがボードに貼り付けられた。

東日本大震災から49日目にあたる4月28日、飯野川第二小学校の体育館で、大川小学校の犠牲者の合同慰霊祭が営まれた。
祭壇には74の可愛らしい児童の顔写真が並んだ。その中には、いまだ行方不明の6人の児童の写真もあった。

その間も、第14旅団の隊員たちは、うみちゃんの手紙を胸に、行方不明の児童を捜し続けていたのである。

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「大川小学校の生徒が書いた自衛隊への感謝の手紙」

じえぃたいさんへ。
げん気ですか。
つなみのせいで、大川小学校のわたしの、
おともだちがみんな、しんでしまいました。
でも、じえいたいさんが
がんばってくれているので、
わたしもがんばります。
日本をたすけてください。
いつもおうえんしています。
じえいたいさんありがとう。

               うみより
東日本大震災の発生から2年になる3月11日の前に、何とかまた被災地にて木札のキーホルダーを作りたいと思っていたところ、今回は大船渡コールセンター
http://ofunatocity.jp/
の手配により、大船渡市内3ヵ所の仮設住宅にて実演製作をすることができました。その時の様子を紹介します。

コールセンターから2月半ばには実施場所を決定した旨の連絡が入っていました。すぐに準備を始めれば何のドタバタも無かったのですが、出発間際まで放っておいてしまいました。いつものことです。



出発の前日になって材料を用意しようと長い木を切ったり板を抜いたりの作業を始めたのですが、終わりません。仕方ないので出発当日の午前中に終わらせてから午後一番で出ることにしたのですがなかなか数が揃いません。とうとう出発は夜9時近くになってしまいました。その日の内に岩手県内に入りたかったのですが諦めて仙台まで。到着は午前1時半でした。翌日は岩手県内のお客様を訪問してから午後7時半大船渡に到着。

岩手県立福祉の里センターという施設が有りまして、宿泊もできるようになっています。そこに2泊したかったのですが9日は一杯とのことで取り敢えず8日の晩だけそこに泊まりました。


福祉の里センター

9日午前中は富塚仮設住宅の談話室にて作業です。ここは富塚公園と言う高台に在る小さな児童公園に設置された仮設住宅で7世帯の小規模施設です。9日、10日とも11日の前の土日と言うことも有り、多くの方が出かけていたのですが、支援員さんとお住いの方が数人ずつ来てくれました。







午後は少し南に離れた下船渡仮設住宅にての作業ですので、移動の途中で昼食を摂りました。低地の部分の市街地は全て津波に流されてしまったのですが、復興建築物が所々に建っていてその内の一つがラーメン屋でした。家系ラーメンとあれば神奈川県人の私は素通りすることができず、惹かれる様に入りました(家系ラーメンとは横浜家の系統を引く背油たっぷりのラーメンをする店です。)。




とは言ったものの、注文したのは背油の入っていない魚介出汁のつけ麺でした(^^)

下船渡仮設住宅も9世帯と小規模の施設で、作業はすぐに終わりです。その晩の宿は去年から営業を始めた民宿にしました。女将さんが一人でやっている宿で、大船渡の宿泊施設が不足していると知り、自宅を改装し保健所の許可を大急ぎでとって始めたそうです。


夕食は復興食堂の「中村」にて。横塚修身さん率いる癒し隊
http://ameblo.jp/florence-iyasi/entry-11482036944.html
の方々と2回大船渡に来ているのですが、その度に訪れた食堂です。いつもは運転手役の人がいるものですから飲んでいますが、今回は一人で食事のみです。



はまっ子丼1500円はかなり食べ甲斐のあるメニューです。美味さと割安感一杯でした。

10日は地ノ森仮設住宅での作業、ここは70世帯ほどの大きな施設です。一応12時までとなっているところ、場合によっては午後までかかってしまうかも知れないと思っていたのですが、効率良く作業ができ、また支援員さん達にお手伝い頂けましたので午前中に終了することができました。















2日間で約300個の木札キーホルダー、木札ストラップを作りましたよ。

午後の時間が空きましたので陸前高田に行くことに。以前訪れた時には市街地だった場所に瓦礫の山が至る所に有ったのですが、その数が大分少なくなった様に感じます。少しずつですが、復旧・復興へ向けて着実に進んでいるのかなという印象を受けました。







広田半島の付け根に箱根山という山が有りまして、そこの展望台から広田湾と大船渡湾の両方を眺めることができます。眼下には本当に美しいリアス式海岸の風景が広がっているのですが、そこからでも津波の爪痕が分かるほどに、侵された土地の色が周りとは異なっていることが分かります。


広田半島です。画面右側の広田湾からと左側の外洋からの波で、平地の先の部分は分断されたそうです。今でも広々とした田には海水が残ったままになっています。

最後に奇跡の一本松を訪れました。防腐処理を施されサイボーグの様になってしまいましたが、同じ場所に戻って来ました。作業の手違いでまだ独り立ちができない状態なのだそうですが、やがて足場も外されることでしょう。この松の保存に関しましては色々な意見が出ていますが、私は陸前高田のみならず三陸全体の復興のシンボルとして立ち続けられるようにしたことに賛成です。多少ですが寄付もしました。これが多くの人の拠り所として、また訪れる人にとって希望の象徴としていつまでも立っていて欲しいと願います。



以上、今回は小学生の作文の様になってしまいましたが、少しだけでも読んで頂いた方の目が被災地に向けられれば嬉しいと思います。