我々、元エホバの証人二世たちが、何に苦しんできたのかが、よく分かる文章です。

当然得るべき人生の長い時間と培われた体力と蓄積できたお金を根こそぎ奪われた私たち。

その私たち自身と世界を救うために何ができるのか。

今、世界を破壊しているものは何なのか。

その破壊を止めるにはどうしたら良いのか。

それが、エヴァンゲリオンの例から学べます。

それには、長い長い時間がかかる場合があり、場合によっては一生解決できない場合もあります。

何しろ相手は、まごころが失われているのだから、、

なので、
最後はその相手に足りない「まごころを君に」と言いたい。

まごころの無い親たちに対して


以下は全て、下記URL本文の引用です。

https://note.com/mukogawa_sanpo/n/nfc410449038a



「誠実に、きちんと、まごころを持って向き合うこと」

だと思う。

 男女は本来、自分自身だったのだから、親子は本来自分自身だったのだから、「相手に誠実に向き合うこと」は「自分に誠実に向きあうこと」とイコールである。

 あなたはわたし、わたしはあなた。

 それは男女においても、親子においてもそうだ。どちらの側から見ても。


 だから「自分で自分を抱きしめ、自分で自分をケアし、自分で自分の味方であること」は、男女の間でも親子の間でも、大切な行為ということになる。



この話を逆に見てみよう。「誠実であるべき、男女の関係・親子の関係」が成り立たない場合や、それを阻むものを想像するのだ。

 たとえば、ここ最近ずっとテーマにしている「宗教2世」問題に置き換えてみる。カルト宗教の教義がなぜダメなのか?なぜ親子関係を破壊するのか、それは

『親子が誠実に話をするときの、”あのね聞いて” ”なあに?"というコミュニケーションを否定するから』

だ。どちらも間違っていてもいいし、不十分でもいいけれど、一生懸命に互いに「伝えよう」「わかり合おう」とする自然なこころの動きを制限し、否定し、遮断するからである。

 だから、「誠実に向き合うこと」を否定するものは、かならずセカイを破壊する。

 これが、世にはびこる悪の正体だ。

 国家間でもそうだ。誠実に向き合うことをストップし、ミサイルを打ち込む国家がある。
 政府政策でもそうだ。法律はいつも不十分だが、誠実に組み立ててゆけば、社会は少しずつよくなるだろう。


 こうした「誠実さ」は、口で言うのは簡単で、答えを先にいえば「なあんだそんなことか」になる。

 けれど、私たちが今生きているこのセカイでは、こんなシンプルなことが何ひとつできていない。

 だから「誠実さを否定する」ものは敵だし、悪魔みたいなものかもしれない。