「誠実に、きちんと、まごころを持って向き合うこと」
だと思う。
男女は本来、自分自身だったのだから、親子は本来自分自身だったのだから、「相手に誠実に向き合うこと」は「自分に誠実に向きあうこと」とイコールである。
あなたはわたし、わたしはあなた。
それは男女においても、親子においてもそうだ。どちらの側から見ても。
だから「自分で自分を抱きしめ、自分で自分をケアし、自分で自分の味方であること」は、男女の間でも親子の間でも、大切な行為ということになる。
この話を逆に見てみよう。「誠実であるべき、男女の関係・親子の関係」が成り立たない場合や、それを阻むものを想像するのだ。
たとえば、ここ最近ずっとテーマにしている「宗教2世」問題に置き換えてみる。カルト宗教の教義がなぜダメなのか?なぜ親子関係を破壊するのか、それは
『親子が誠実に話をするときの、”あのね聞いて” ”なあに?"というコミュニケーションを否定するから』
だ。どちらも間違っていてもいいし、不十分でもいいけれど、一生懸命に互いに「伝えよう」「わかり合おう」とする自然なこころの動きを制限し、否定し、遮断するからである。
だから、「誠実に向き合うこと」を否定するものは、かならずセカイを破壊する。
これが、世にはびこる悪の正体だ。
国家間でもそうだ。誠実に向き合うことをストップし、ミサイルを打ち込む国家がある。
政府政策でもそうだ。法律はいつも不十分だが、誠実に組み立ててゆけば、社会は少しずつよくなるだろう。
こうした「誠実さ」は、口で言うのは簡単で、答えを先にいえば「なあんだそんなことか」になる。
けれど、私たちが今生きているこのセカイでは、こんなシンプルなことが何ひとつできていない。
だから「誠実さを否定する」ものは敵だし、悪魔みたいなものかもしれない。