「あなたは、神と私に従順であれば、いい子なの。それ以外の道はサタンの子が辿る道だわ」
それが母親の口癖だった。
それで、私はなるべくそのレールを踏み外さないように、幼少期からずっと努力してきた。
その結果として、したいことも全て抑えつけられ、「本当は何がしたいのか、何が望みだったのか」さえ、全く分からない子になっていた。
とにかく、神と母に喜ばれる道を、いつも選択してきたのだった。
だから、いつも私の頭の中では、「あれをしたらダメだ、これもしたらダメだ」という、選択してはイケナイ道しか分からなくなっていた。
それで、いつも「こっちが良いから、自分はこれを選ぶ」という姿勢ではなかった。
「こっち」しか残っていないから、仕方なくそれを選んできただけだった。
こうした生き方をずっと自分に強いてきた。
いつしか、私は、神と母の目だけを伺うようになっていた。
「これをしたら母が喜ぶから」という理由だけで、バプテスマを受けることも決めていた、と思う。
それでようやくバプテスマを受けて初めて母からの信頼を得たように感じていた。
その母は案の定、正式に兄弟となった私を見て、大変に喜んだのだ。
それでもずっと心の根底には「愛されたい」という願望があった。
だが、悲しいことに、この「愛されたい」という願望からは、決して本当の愛を得られないという大きなデメリットがあったのだ。
だが、条件付きの愛しかしらない人間は、ただ、条件をクリアして愛されようとする。
そして、なんとか相手の条件をクリアして、その愛らしきものを得たところで、再び次の条件が与えられ、またそれを奪われるのだ。
本当は、こんなものは愛でも何でもなく、褒美をエサにした残酷な点取りゲームでしかない。
だから、本当の意味で安心して生活を送ることはずっと、できないままだった。
エホバの証人の教え込むこのような条件付きの愛は、残酷な愛らしきものだけしか残らなかった。