エホバの証人を辞めてから、あらゆる宗教に興味が出ていたのだが、自然な仕方で自分を律するようにと説いている仏教の、特に禅宗の教えは、自分にとって何かと腑に落ちる点が多かった。

特に幸せについての考えは興味深い。禅宗で言う幸せとは、なかなか辿り着き難い遠いところにあるのではなく「今、ここに、自分がいられること」にあるという。

すなわち、自分は今、生かさせていただいていて、ここに居られるということを、ただありがたいと思うことだ。それを「安閑無事」と言う。

また、「本来無一物」と言う禅語があるのだが、人は産まれてくる時には、誰しも一本の糸も身にまとわず産まれてくる。すなわち、人は、はじめからお金があるわけではないし、学歴があるわけでもない、何もない状態で産まれてくる。

だから、何かコトが起こって、これまで自分がまとってきたあらゆるものを、たとえ失うことになったとしても、命だけは残る、つまり、それは元に戻るだけのことなのだからもう一度頑張ればいいのだ、と説いている。


だが、一方で「無一物中無尽蔵」という禅語もある。人は産まれてくるときには無一物なのだが、それぞれの人の中に無尽蔵の可能性が秘められている、それに磨きをかけるかどうかは、その人本人次第だと言う。

これらの教えを聞いて、私は本当にその通りだと思った。たとえ全てを失っても残っているものがあるだけでも感謝だ。

その残されたものを大切にするかしないかは全て自分に委ねられている。だから、これからもそれを大切にして生きて行こう。そしてできれば誰かのために、この命とその無限の可能性を用いて行こう。

ふと耳にした禅語の言葉の意味を理解して、何だか自分が優しく励まされているような気持ちになった、有難いことである。