絶対的な価値とかさ、
絶対的な人生の意味なんか無いんだよ。
価値ってさ、そもそも求める人と与える人の中での価値観の共有があってからこそだからさ、
それは相対的でしか、有り得ない。
それがあるとしたら、
自分の生命を尊く、愛おしいと思うだけの事なんだよ。
んでさ、
皆さ、金稼いで、人間関係に悩んでさ、
家事して、好きな事して、
なんか知らんうちに、年食ってさ、
どんどんと責任を引き受けるか?の選択をしてさ、
そんで、1日を終えて、1年を終えて、
どんどんと人生を、終えていく。
ただ、それだけなんだよ。
卒業していくだけなんだよ。
寂しいけれど、それが人の生きる意味の事実なんだよ。
んでさ、やっぱ、生きてるからには、
幸福になりたいじゃんかよ。
何かの対象を楽しむにしてもは、
愛する気持ちがなけりゃあ、
何やっても、つまんなくなるんだよ。
我執だけじゃ、何やってもさ、飽きちまう。
此の世界で、俺は自然が好きだからさ、
田舎者だし、
夕焼けを眺められたら、割と幸せなんだよな。
今日、ちゃんと生きれた事に、有難うと思えて、
ちゃんと1日、また、死にちゃんと近づけた事を、
なんか許せる気持ちになる。
こんな風に過ごせたなら、いつか、
死んでもいいや!ってさ、
吹っ切れる。
仕事してる時は、仕事の事だけ、
目の前の事だけを、集中してもさ、
どうせ、家に帰ったら、皆、無関係だからさ、
友人作りに行ってるわけでもないしさ。
なんか、テキトーに生きていいなって、
深刻に考えるのがさ、馬鹿みてぇだって、
笑える。
それで、いいじゃんかよ。
金稼いで、
私生活を送ってさ、
特にやりたい事なんかなくてもさ、
まあ、人間は、また今日みたいな1日を過ごせたら、良かったな!
また明日も、こんな1日を送りたいな!
ってさ、そう思えたら、克ちだよ。
相対評価自体を破壊してさ、
自分の頭の殻を飛び越えてさ、
克服した人が、克ちなんだ。
とてもそう思うんだ。
生老病死なんて、どうでもいい。
また、今日みたいな1日を送りたいな!
明日も、また生きていこうな!
ってさ。
だから、何度でも、同じようで、同じじゃない1日が、何度でも繰返しのように、また、巡っていくんだろう。
人生を克服する。
別に、聖人君子じゃなくても、
それはできるだろ?
愛されて生きてる。
皆の為に、自分の為に、幸福の総体を大きくする為に、生きてる。
そして、執着を手放して、
どうでもいいや!(爽快)
で、良いんだよ。
生きてる事が、
心地よくて気持ちよければ、別にどうでもいいだろ?
だから、俺は、克ち組を、
今後、どう生きようか?と悩むなら、
それを提唱したいと思うよ。
皆とは違う道だけど、
皆も同じ様に生きてる。
皆、同じ川の畔を歩いてる。
死へ向かう大海原への道程だ。
ならば、今日の1日が、何度も巡っても良いなと思えるように、生きねば!
感謝して、ちゃんと自分を愛して、人を愛して、
此の世界を愛していく。
いつか、必ず、途切れる自分の生の道を、
悔いなく生きねば!
皆も同じ生の道を、生きてるなら、
全ての人は、仲間だ。
全然、繋がってなくて、バラバラだからこそ、
価値がある!
こんな風に、歳を取る。
いつかは、卒業するのが、
僕だけじゃないなら、
この人生を終える事を、
もう、手打ちにできる。
もう、よし!と決める。
それが、人生に克つ!唯一無二の手段だよ。
人生自体に、克つしかない!
ーー終わりーー