人は、自分で価値を、意味を、
見出す生き物だ。
だから、
無価値や無意味に、意味を見出すなら、
その人は、そんな現実を生きるかもしれないし、
意味がない世界が、その人の中の現実なら、
自殺に意味を見出しては、死ぬかもしれない。
仏教の六道とは、
地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道。
其々の説明は、割愛するけれど、
ぶっちゃけで言うと、
僕の知る限りは、先程言った、
人は、意味を価値を見出す生き物だ。
が、とても重要な鍵になる。
何故か?
人が、心で意味を価値を見出した何かを、
誰かが、どんなに否定した所で、
それが、あなたの心で感じた事に、
何かの影響を及ぼすだろうか?
その心理に影響を及ぼすならば、
あなたは、その言葉を信じる事になってると気づく。
つまり、自分の心を、半信半疑だか?
あまり、信じ切れないと思ってる事に当たる。
だけれども、
例えば、あなたが好きな食べ物、
今、食べたいなァ〜と思う事に、
誰かから、それはあなたが嫌いな食べ物で、
いやいや、食べたくはないはずだ!
と、トンチンカンな言葉を投げ掛けられても、
何の影響を及ぼすだろうか?
何言ってんだ?この人???
と、ポカーンとするばかりだと思う。
つまり、
あなたが、思う事や、信じる事、好きや嫌い、
大切にすると心で決めてる事や、
生き方なんかを、
誰かに言われた所で、
それは、どんなに筋が通っていようが、
あなたは、あなたであって、
私は、私ですから、
知ったことではないし、
答え合わせる必要もないです!と、
あなたは、言い切れるはずだ。
つまりは、冒頭の人間とは、
意味や価値を見出す生き物だ!
は、真実なのだ。
じゃあ、仏教の六道が、何の関係があるの?
と、あなたは思うかもしれないけれど、
まず、僕の解釈ではの捉え方を、
この六道は、転生とは、の定義をしっかりと、
理解して欲しい。
転生とは、人は死んだらどうなるか?
では、全く無い。
お釈迦様は、死んだらどうなるか?
と、弟子に問われた時に、
そんなの知りませーーん。と、
断言する書物が、ちゃんと史実で遺ってます。
この転生とは、心の中の人の捉えてる「自分」が、
いくらでも、変わるという事。
簡単にいえば、
この現実の自分とは、
自分が自由に、心で捉えた自分像であります。
つまり、そもそも今ここ居る自分とは、
頭で認識された自分像に過ぎないのです。
じゃあ、その本質とは、何か?と、
言われたら、
僕自身も、体感したことが無いので、
本当の事は、一切、無責任な事は言えないと、
答えるしか無いのですけれど、
それを、真に体現したら、
その人は、仏様です。
つまり、覚者です。
要するに、覚者とは、悟りを開くとは、
悟りとは、簡単に言えば、気づきという意味なんですけれど、何に気づくか?といえば、
この今ここにいる自分像ではなく、
真の自分に気づくという事です。
真の自分とは、頭が認識する前の、
この空の状態の自分そのもの。
まあ、難しい話をさて置いて、
転生とは、この自分像の現実世界に今ここにいる私だと無自覚に思い込んでる、
まあ、普通に生きてる私が、
いくらでも、変わる事そのものなんです。
これは、私は、変動しまくってるので、
体感したから、事実なんです。
ぶっちゃけ、この六道を転生しまくってる。
つまり、心の綺麗さや汚さとは、
この価値や意味を、見出すからこそ、
全てに、否定する人は、否定した意味の世界が、
現実になるだけなんです。
逆の人は、肯定できる人は、
肯定する世界に生きる私に、
意味や価値を見出してるんです。
人は、無償の愛に意味や価値を、
とても貴重だと知ったと思ってる時に、
最大の意味や価値を見出します。
つまり、本当の幸福とは、
物質でもなく、感じる事なだけなんです。
生きる事は、物質なのですから、
当然、金も物も何もかも、あった方がいいんです。
但し、愛されてるなと思ってる人は、
そもそも物に執着する必要が無いので、
(渇愛がないから、または、少ないから)
最低限で良いって、意味や価値を、
そのぐらいで、自分の標準の基本線が、とても低くなります。
これが、清貧という事です。
中国の仙人は、霞だけを食べて生きるなんて、
言われてますけれど、
物質世界を克服したという意味で、
あんなイメージです。
人間は、御飯食べないと死にます。
なので、日本の修験道や仏教のとても酷い修行なんかは、伝え方が間違っているんだと、
私は思います。
そんな体験をしても、心が物質世界に執着してたら、ただの苦行自慢に過ぎませんので。
自然と、心が現実世界の執着から、
離れる事が、必要なんです。
修行なんかは、無意味です。
心が幸福になるとは、
愛を感じる事なだけです。
それは、人それぞれに、その繋がり方も、対象も様々。
人々に、慈愛と感謝を持つ人は、
その意味や価値を、
どんな人にでもあると、その人が信じ切ってるならば、その人の現実世界は、
その人でさえ、慈愛と感謝が、因果応報で還ってくるんです。
因果応報の意味は、
悪い行動をした人間には、悪い事が還ってくる。
ですけれど、
これは、罰が当たるとかではないし、
善い行動をしたから、善い結果が還ってくるという意味ですけれど、
じゃあ、善人が、みーーーんな、お金持ちで、
幸福に暮らしてるという意味でもないし、
みーーーんな、善人ならば、仕事ができる超優秀な理由でもない。
例えば、メダカを飼う人は、
全員、普通に飼いたいと思ってるし、
死なせたくないと思ってますので、
業者とか、営利活動の為に飼う人を除き、
民間の普通の人々は、みーーんな、
良い心を持ってますので、
みーーーんな、メダカをちゃんと飼えて、
みーーーんな、満足か?と言われたら、
そんな訳がないですよね???
これは、単に、知恵や知識や、それらを含めた技術力なんです。
要するに、スキル=技が上手いか?どうかだけが、現実世界での実力なんですから、
そこに、良い心があればさ、
皆、救われるんだよ!
なんてのは、誰が聞いても、
そんなのありえねー話じゃね???
って、わかると思います。
それでも、本当に愛がメダカに向けられてるならば、努力するなら、何でも大抵は、できるようになると、私は信じたいですけれど、
良い心の持ち主が、
空を自由に飛びたいな!と思っても、
スキルがないから、無理なのは、無理なんです。
なので、俗世間の罰が当たるとか、
良い人間だから、現実世界で救われるというか、
成功するとかは、
全く、因果応報の意味とは、掛け離れてますが、
そうとも言えない。
何故なら、人々は、愛がある人が、
愛ある行動してたなら、
この人は良い人間なんだな!と判断してくれて、
良い事をしてあげようと思う人が、
まあ、普通の人の心ならば、そう思うんです。
逆も、また然りです。
死刑制度を、考えて下さい。
逆に、ソクラテスの死に様を知って下さい。
どんな善人でも、賢人でさえも、
その時代の王様二睨まれたなら、殺されます。
処世術は、単なるスキルなんです。
つまり、一般の人々は、
自分の理解の範囲を離れた、特異な人を、
受け入れられないし、
勝手に、負の感情を持っては、
正しく殺したいと思うんです。
その特異な人が、
どんなに素晴らしくても、
その人の素晴らしさの意味さえ、
普通の人は、理解はできないんです。
つまり、超善人とかは、
よく、まともな人ほど、ぼっちになるのは、
三国志の諸葛亮孔明さんは、
そもそも、劉備さんに誘われるまでに、
人里を離れて、自給自足で暮らしてたように、
まともすぎると、普通の人々が嫌いになりますので、ボッチになりたがるのは、
もう、しょうがない昔からの人間の有り様なんです。
まあ、要するに、白黒をハッキリとわかる人ほど、
愛の意味をハッキリとわかる人ほど、
普通の人々よりも、鮮明なので、
自分をより良くしようと、
白くなろうと努力した人や、
高い人は、
魂のレベルとか、霊格とか、言いますけれど、
レベルの高い人は、レアなので、
どんどんと低い人々を愛せなくなるんですね。
もう、しょうがないんですね。うん。
自分がまともなほど、普通の人々の基準線の低さが、目立ってきちゃうから。
そりゃあ、反りが合わなくなる。
長くなりましたが、本題は、
輪廻と、六道の話です。
そして、人は、価値や意味を、心で見出すだけの生き物なんです。
私とは、空だとは、
悟りを、僕は拓けてないと思います。
色即是空とは、
物質の自分とは、これは空だと知る事だ。
つまり、自分とは居ないと気づく事だ。
これは、勿論、地球上に、自分が居なくなるという意味ではなくて、
自分が頭で認識する自分像=普段の意識体=要するに、普通に今ここにいる自分が、
自分の意識下には、居ないという意味です。
つまりは、要するに、
それが、空っぽ、居ない。
と知ったぜ!というのが、
人間をやめることだから、仏様なんです。
つまり、
汎ゆる執着から、
世にいう心の愛される幸福からも、
愛して欲しいと執着する不幸からも、
離れるという事なんです。
簡単に言えば、どっちも捨てる。
禅語の両忘なんて言いますね。
だから、苦行なんて意味ないって、
お釈迦様は、修行なんかやめた経緯があるのに、
修行自慢が、まだ現代にいるのが、本当にあほらしい。
じゃあ、この両忘する為に、悟るために、
お釈迦様、彼は何をしたか?
ただ、ひたすら、座って、瞑想した。
悟りたい気持ちも棄てたから、
既にもうあったよーーん!って、
自分が居なくなった、自己の世界が消滅したからこそ、
俺は仏だッ!!!!って、気づけたんです。
僕は、執着してるので、
これは体現してません。
ですが、これは、僕の知恵と知識は、
本当だと理解してます。
瞑想とは、執着から離れる為に、
死ぬ事を思う事であり、
生きてる人の幸せを、願うんです。
だって、それが心の中の善の因果を生み、
その善が還ってくるから、
自然と、悟れるって寸法ですよ!
って、悟りたい人の為に、書いてる訳じゃなかったな。
つまり、僕が本当に言いたいのは、
悟りたい人の為のノウハウではなくて、
普通に暮らす人々へ向けて、
というか、全人類に向けて、
現実世界で生きるなら、スキルを上げよう!でも無くて、
(それはとても有効な手段だと思うけれど)
本当に、全ては因果応報なんですけれども、
人は、この人生に対して、
自分が、普段生きてるだけで、
心の中でも、頭の中でさえも、
意味や価値を見出してるって事なんです。
人生は無意味って言っていいのは、
その無意味の意味を、ある意味知らない人は、
無意味なんだから、じゃあ、好き勝手に生きようーー。楽しく生きればいいじゃなーーい。
って、開き直れる人だけなんですよ。
これを、真に受けて、
無意味なら、もう死のう………。
だって、無意味なんだから…………。
と、
本当の意味で、無意味の意味を知る人ほど、
その無意味の意味を、知ってるからこそ、
死んじゃ駄目よ❗
だったら、
意味が有るとか無いとか、どうでもいいから、
その頭の狭い箱の中に閉じこもるのを、
やめて、飛び出せ!
だったら、あなたが心で、
意味や価値を見出す存在として、
この意識下のあなただけが見てる、
あなただけの現実に、
あなた自身が意味や価値を与えて生きろ❗❗❗
というか、既にもう、そうしてるんだよ❗❗❗
って、気づけ❗❗❗❗❗
って、そういうMessageを、伝えたくて、
長くなりましたが、贈りたかったんです。
あなたが、幸せに生きたいなら、
あなたが思う幸せが、
普段の暮らしの中で、
何が、今までの自分の満足感を得たり、
幸福感を得た事だったんだろう?と、
自分らしさを、まず、知って下さい。
あなたが、こんなの無意味じゃん!って、
そんな意味や価値を、
とても酷いレッテルを、現実に貼れば貼るほどに、
とてもつまらない人になっていくと、
心がキラキラしてない、
無感情や現実感がなくなり、
幸福感も亡くなっていくと、
あなた自身が、現実に呪いを掛けてしまうんです。
あなたが、この現実に意味や価値を見出す存在なんです。
それは、呪いの言葉で決めつければ、
そりゃあ、呪われますって!
それを、幸せの愛がある魔法の言葉で、
彩りを与えるのも、あなた自身の心と、
その言の葉で、創り出すんです。
ジェームズ・アレンという自己啓発本には、
人は考えたとおりの人になる。
とあります。
自分の事を、阿呆だと言う人は、阿呆になりますし、
賢いと言う人は、賢くなります。
自分自身を生きるならば、
人は最後は、何がどうであっても、
肯定しなくちゃ生きていけません。
あなたが、その今現在の自分を愛するんです。
そう決めるんです。
やるだけなんです❗❗❗❗❗
そうすると、愛がある次の世界の扉は、
拓けてくるんです。
夢が叶うと思う人じゃないと、
夢は叶いませんし、
それは、自分を信じる者が勝ちます。
強くなる!ではなくて、
強いんだ!と、知るだけなんだよ。
できるようになる!は、
スキルの向上なだけなんだけど、
そのスキルの種は、もうあるってするだけなんです。
そうは、思えないんじゃなくて、
そう決めるんです。
信じると決めたもんが、うまくいく。
というか、
そう思えないなら、そう信じる方向へ、
残念な舵を切ってしまうんです。
信じる者は救われるというと、
胡散臭く、
嘲笑われる世間が、どんなに悪魔であっても、
どんなに醜くても、
あなたは、あなたを信じて生きて下さい。
全ては、あなた次第なんですから。
誰が何と言おうとも、
あなたが、やりたい事をやった方が、
良いに決まってます。
自分勝手な我儘に、責任を負うのが、
大人になる事です。
つまりは、やりたいようにやればいい。
それが、僕から贈れる最大の人生訓です、
今から、ここから、
その第一歩を、
大人になった今だからこそ、
踏み出すべきでは、ないでしょうか???
それは、普段の自分へ、信じる事に掛かってるんです。
ーー終わりーー