どうせ死ぬなら、
思い通り、好き勝手に生きて、
飛び切り、楽しんでから、
「あぁ〜、楽しかった❗」と、
1言、遺してから、
死のうと思っていたんだ。

ずっと、ガキの頃から。

だけど、
僕は、何方かといえば、
ACTIVEに楽しむより、
YouTubeで、マイルス・デイビスを聞きながら、
珈琲啜って、
ぼーっと、
水槽眺めて、
過ごしてる方が、
心地良いし、
幸せだった。

そういうタイプの人間なんだよ。

自分の考えてる事が、
世間や社会と、
いくら、マッチしていても、

そもそもの実体の素顔が、
そんな人間じゃなかったら、
ずっと、付き合う自分と、
上手くやれなかったら、
何を掴んでも、
実感は、湧かない。

活躍なんか、
しなくてよかったし、

わざわざ、外で遊び呆けようとするよりも、

のんびりしてたい。

人といると、
とても疲れる。

どうでもいい話を、
楽しそうにするのは…。

人の調子より、
魚の調子を窺いたいと思う。

どちらかといえば、
陽キャ、陰キャと、
世の中では、
分けられてると思う。

だけれども、

生きていく為に、
僕なんか……。
と、思いつつ、

周りの人と、合わせるには、
生きていく為には、
力が必要だったから、
やらざるを得ないから、
そうやってたに過ぎない。

そして、
素の自分は、陰極まって、
陽となる。

陽極まって、
陰となる。

そんな風に、
実体が、ぐるぐるぐると、
巡ってるだけで、

体育系でも、
理系でも、
文系でもなくて、
インテリでもなけりゃ、
バカでもない。

単なる考え過ぎちゃった、
子供のまま大人になった、
傷ついた人なだけ。

どんなに傷ついて、
どんなに絶望して、
泣き疲れたヒトリノ夜を、
乗り越えても、

逆に、
どんなに、
皆と、楽しさを喜びを、
調和する素晴らしさを、
与え合う喜びを、享受し合っても、

全ての人が、
僕の目の前を、
子供の頃から、
今に到るまで、
たくさんの人と出会っては、
その分だけ、
通り過ぎてしまったけど、
人は、
食べたい❗と思ってるなら、
食べてから、満足か?
を、感じればいい。

腹が減ってるのに、
どうせ、空腹になるのに、
食べてどうする???

食べる事に、何の意味があると、
考える人が、
この世に、そんな生物がいるだろうか???

その満足は、
幸せは、人生の永さを思えば、
一瞬かも、
しれないし、

僕が生まれる前や、
死んだ後に、
流れ続ける宇宙の時の悠久を思えば、
僕の命の人生は、

僕からしたら、
ベランダのビオトープのメダカの一生分と、
何ら変わらないだろう。

じゃあ、メダカは、
餌を食べないで、
死のうとするか?

生きるとは、
その一瞬の出逢いや、
幸せの歓びを
感じることに在る。

それは、
些細な日常生活を、
暮らして生きていくだけの
統べての人々に、
当て嵌まる。

今ここという一瞬の人生に、
人は存在する。
=在る。

生きる事は、
本質なんて、分ける事ができない。

丸ごとが、総て。

なら、丸ごと、総てを受け入れてしまって、
はい、ご馳走さん❗
それだけで、
何も残るとか、
意味がどうとか、
何も無くていい。

生きているとは、
流れ続ける、
私の化学反応=存在するという意識現象に過ぎない。

だけど、

悲しみであれ、
喜びであれ、
怒りであれ、
素の気持ちであれ、

今ここで、
感じる事が、
在るなら、
それだけなんて、
言葉に成らない。

その実感という意識とと共に、

愛と恐怖の2大感情に、
曝され続けていけばいい。

川の流れの様に、
1日1日を暮らしいくだけで、
何も考えることはない。

そもそも、何もかも持っていた。
これが、人が生きるという事というのは、
もうとっくに、答えは持っていた。

だから、
流れて行こう。

だから、
生きていこうとしなくて、しても、
どちらでもいい。

あなたは、もう生きているじゃないか?

死のうとしても、
しなくてもいい。

何方かといえば、しないで欲しい。
どうせ、皆、死ぬんだから、
急ぐ必要はないんだよ。

この世は、
ベランダの睡蓮鉢のメダカを、
眺めては、
可愛いと思うことだよ。

得も、損も、
生には、無い。

生きてるんだ。
それが全てだ❗

ーー終りーー