世の中を、
良いとか悪いとか言うのは、
簡単なことだと思った。
自分を被害者にして、
人々を加害者にすることも、
自分を加害者にして、
人々を被害者にすることも、
簡単だ。
けど、
可哀想振るのも、
罪悪感を持つことも、
しないように、
ど真ん中をいく事は、
その適性水温の維持のように、
一瞬なら簡単そうに思えるけれど、
ずっと、続けていく事は、
当然のようで、
とてもつもなく、難しいんだろうな。
そう思ったりした。
わざわざ、悪く言おうとしたり、
わざわざ、良く言おうとしたりする人は、
大体は、社会に塗れてしまった、
かつての無邪気な子ども達だ。
でも、やっぱり、
それは、変なことだよって、
僕は思う。
わざと善人になるのも、
わざと悪人になるのも、
やっぱり、変だよ。
そのままでいいじゃないか❗
変わるよりも、
変わらないこと。
その上で、変わっていくことの、
変わるの意味は、
僕が僕のまんまで、
大きくなればいいってことだよ。
例えば、
金魚が、そのままの金魚の成魚になるように。
でも、どんなにちっちゃくても、
生後1日目から、
コリドラスは、コリドラスしてる。
僕は、成長はゆっくりでいいんだよとは言いたくない。
僕は、もう、さっさと大人になりたいと思う。
それは、そっちの方が、
自然だし、やっぱり、良いからだ。
精神的に、
大人になるとは、
変に歪んでいく事なんかじゃない。
ど真ん中を、
何度も何度だって、
正しい綺麗な線を、
鉛筆で描く事のようだ。
変な線を、いっぱい書いたのを、
評価するのはおかしいし、
歪んでる線を、
先に書いた者勝ちも、
おかしい。
最終的に、
ど真ん中を書けばいい。
例えば、
アクアリウム好きが、
魚を愛するように。
水草の水景の美しさに、
惚れ惚れと感動するように。
…スネールが、やっぱり、
気持ち悪いことのように。
できないことを、
1つずつ、努力する。
それだけで、
きっと、良いんだ。
現実的に、
どんなにそれが
確固とした力があったとしても、
僕は、それは認めるけれど、
断固として、容認しない。
社会も、人も、自分も、
未熟性が、
果てしなくあるからこそ、
可能性と同じ意味だ。
絶対的の力の魅力に負け、
自分を曲げていく事が、
決して、
成長でも、適応化する事でもない。
自分を貫く事を諦めた
かつての子供達が、
得しただの、
損しただのと、
一喜一憂してるのも見ると、
違和感と、
衝撃と、
本当に悲しくなって、
切なくなるけれど、
それは、僕も同じく、
汚れしまったから、
それもとてもつもなく、
わかってしまってるのは、
僕自身だから、
わかる。
けど、
お金があるから、偉いとか、幸せですね!
なんか、やっぱ、ちげえし、
幸せは、
心の調和の中に、
いつもの生活のほっとした安堵の気持ちのまま、
水槽の中を優雅に、
元気に泳ぐベタ君を、
見ることのように、
それは、ありふれていて、
本当に幸せなんか、
とっくに、誰にでも、
あるのに、
見落としてるだけ。
大切なのは、
いつでも、自分から愛することだよ。
その上で、欲望と力を心に宿して、
誰に何を言われようとも、
貫いたら、
あなた自身が、あなたを救う光と熱を持った人間であることを、
心が殺されても、死んだとしても、
何も恥じる事はない。
だから、
負けるな❗❗❗
真実は、心に愛する心があるか?どうかさ。
ーー終りーー