このブログを書いていて常々思わされるのですが、常識とは一体なんなのでしょう。

昨今の常識の使い方としてはむしろ、「お年寄りに席を譲るのは常識だ」というような価値観における使い方の方が多い印象ですが、ここでは共通知識という意味で使います。

 

わたしのブログでありがちなのは、

・みなさまも知っての通り、

・欧米では、

・〇〇なので、

・普通、

と言った文句達です。

この文句たちはある魔法を持っておりまして、

冠することだけで、知らない知識でも人々には「常識」に映ってしまうのです。

しかし、冷静に考えればいつそれが常識になったんだという話なわけであります。

小煩い言い方をすれば、根拠はどこだ、エビデンスはなんだという話です。

それこそ今先ほど申し上げた「価値観という使い方の方が【多い】」も「【普通】はその根拠を説明しない」も誰が決めた基準なのか、ということです。

 

このことに関して深く考えさせられたのは大学の卒業論文でした。

こうして毎日文章を書いているように、元々文章を書くことに対する抵抗はさほどありません。

4000字程度なら推敲せずの状態で1時間あれば書けてしまうので、

普段の大学のレポートも全くストレスになりませんでした。(評定は置いておいて、)

そんなわたしが、文章を書くのが嫌いかもしれないと思ったのが卒業論文だったのです。

全く書けませんでした。

 

というのもそれまでのレポートなんて教授や先生からいちいち丁寧にダメ出しを受けるなんてことはありません。

出して評定をもらって、それで終わりです。

しかし卒業論文は他のゼミ生や教授から色々言われながら書き進めます。

これだと論が一人歩きしている、この反対も想定できるがなぜ無視する、この前提のエビデンスはどこか、とかです。

初めはなるほどと思っていても、だんだん文章が書けなくなっていくのです。

この前置きは正しいのか、正しくないのか、つまり、常識として書いてよいのか、それとも自分の偏見から生まれた価値観なのか、という悩みです。

 

今でも覚えているのは「演劇は日本では人気ではない」というのが常識に当てはまらない、と言われたことです。

わたしも、わたしのブログを読んでくださる方の多くも、演劇をよく見る人たちなので、

(このブログのアクセス者がほとんどがツイッターのURL経由なのでこれは容易に想像できます、というエビデンスがあります。笑)

そういった人たちからすると先の理論は常識の部類にあたると思います。

しかし演劇なんていじめられっ子がやるものだ、という価値観で育ち止まっている同期からすれば常識ではありません。

いや、お前が演劇が何かをいまいちわかってない時点で演劇人口の少なさを証明しているだろ…とか色々言いたいことはありましたよ。

それでも確かに言う通り常識とは言い切れないんですよね。

(結局先進国と呼ばれる8カ国の観劇人数や国民調査とかを引っ張って「演劇は、先進国と比べて日本では人気ではない」ことを証明しました。)

 

「演劇は日本ではメジャーではない」のように間違いなく合っているだろうけれども、実は具体的な統計は誰も見たことのないレベルの常識は非常に危険です。

間違いなく合っていることももちろんありますし、逆もまた然り、そう誰かによって思わされていて合っていない可能性もありますからね。

そのレベルの常識は、常識であろうがなかろうが「常識として」とか「一般に」とか枕詞をつけられると常識だと錯覚してしまう危険性が非常に高いのです。

 

少し他にも見てみます。

「世界中で最も使われている携帯はiPhoneである」は常識でしょうか。

まずは日本で考えてみましょう。

かく言うわたしは今電車に乗っていますが、そうですね、ほとんどiPhone時々Xperiaと言った具合で、「日本で最も使われている携帯はiPhoneである」は間違いなく、常識と言っても良いでしょう。

実際、iPhoneのシェア率は2017年なんて68%に到達するほどです。

圧倒的です。

 

では、世界はどうか。

日本で一番使われているのがiPhoneで且つ圧倒的なら世界も?

いいえ、違います。

1位サムソン、2位Huawei、3位apple(iPhone)です。

まぁ、これも罠があるんですけどね。

iPhoneは全部iPhoneですが、アンドロイド携帯は世代によって機種名が変わるので…。

それはさておき、iPhoneは世界で見ればシェア率は一番ではないのです。

さらに言えば、先ほどわざと2017年と言ったのですが、

日本ですら2018年になると、iPhoneよりもアンドロイドの方がシェア率が高くなりました。

わたしが電車で周りを見回してiPhone多いなと感じたとしても常識なんてそんなものなのです。

自分が居た車両のiPhoneが多かっただけなのです。

 

これらは話す時に勝手に常識と決めつけずにエビデンスを調べよう、なんてことが言いたいのではありません。

常識なんて全部偏見だ、と主張したいわけでもありません。

そうではなく、常識かどうかを自分で見極められるようにならないと非常にまずい、という警鐘です。

これに気をつけないといつの間にか騙されてしまいます。

特にこれが統計の存在しない常識だとさらに大事です。

つまり、善悪などの価値観の常識です。

 

「死刑は有益」

「人工中絶は必要」

「国の存続のためには増税が欠かせない」

「体罰はダメ」

「パワハラは禁止」

「大麻を吸う奴は最低」

こういったことは本当に常識と言えるでしょうか。

周りが言っているから、そう思うだけではありませんか。

 

常識、とはその力強さをもって判断力を鈍らせるものです。

アインシュタインの名言をご紹介します。

Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.

「常識とは18歳までに集めた偏見のコレクションである。」

 

さて、あなたにとっての常識は、常識なのか、偏見なのか。

 

 

下平