少し前に中高生と話す機会がありまして、あぁ、この国では本当に「教育」が誤解されているなぁと思ったので、とてもめんどくさい匂いのする教育についてを書いてみます。

 

とは言うものの、教育の誤解はずっと蔓延っている問題だなと思っておりまして、ついぞ先日「ああこのままだとやばい」と思った事件が有りました。

とあるユーチューバーの台頭です。

そのユーチューバーは小学生で、不登校は罪じゃないなんてことを謳って活動している方です。

彼曰く、学校の友達がみんなロボットに見え、行く意味が見出せなかったから不登校になったそうです。

そのおかげで今は他の人が学べないような経験をたくさんしたとのこと。

 

あまりユーチューバーというものを知らないので、少し的外れな意見かもしれませんが、これはお金を稼ぐに値するコンテンツなのでしょうか。

もしかしたら売れているから注目されたわけではないのかもしれませんが、よくもまぁ、大人もこんなユーチューバーを取り上げて記事にしましたね。

そんなに記事にすることが見つからない世の中ではないと思うのですが。

すみません、毒が過ぎました。

 

彼がネットニュースに取り上げられると恒例の賛否両論大会が始まりました。

新しいことが行われると必ず起こる日本の伝統芸能ですね。

その内容の多くは、「義務教育は行ったほうがいい」や「あなたの登校拒否(意味を感じられないら)と他の登校拒否を一緒にしないでほしい(いじめ)」でした。

対する反駁勢は「そんな小さい頃からそんなことを考えて素晴らしい」「なにかを考えるのには意味がある」

そんな論争です。

 

そもそも義務教育とは子供が教育を受けなければならない、という義務ではありません。

国家を始めとする大人たちが子供に教育を受けさせる義務のことです。

これはよく誤解されていますが、子供が持っているのは教育を受ける権利です。

憲法26条に記載されています。

第二十六条 

1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

ですから、この議論はもうダメダメなのです。

大人は子供に教育を受けさせる義務があるのに、それを「君は小さい頃から先見の明があるね!いい心意気だ!」なんて言っている場合じゃないのです。

いいから、受けさせろ、それだけなのです。

 

では、なぜ教育を受けさせる義務があるのでしょう。

ここからがセンシティブなポイントとなってきます。

 

初めに大人の皆さんに考えていただきたいのは「義務教育で学んできたこと」はなんでしょうか?

それは決して単純な学力ではないはずです。

 

世の中を生きるためには、最低限持ち合わせてないと困窮する知識があります。

時間を読めるようになる、だとか、文字を読める、だとか。

それは学力ではありません。

赤ん坊で言う歩き方みたいなものなのです。

それがなければ苦労してしまうといった常識の類なのです。

この国で生きるために必要な武器なのです。

だから子供が苦労をしないように教えなければならないのです。

だから、義務なのです。

 

その程度の知識、家で教えられる?

本当でしょうか。

確かに単なる知識として伝えるのは簡単です。

でも実際それが必要となるのは色んな人が関わってくる日常生活。

日常生活でどう使うかを教えなければならないのです。

日常生活という状況を家での教育だけでおしえられるでしょうか。

この先どんだけ権力を持とうが、自分が居ても苦痛ではない、嫌なことなんて無い、そんな桃源郷存在しやしません。

社会というものは既にあって、必ず押し付けられるものです。

その中でどう折り合いをつけていくか、それも含めての義務教育なのです。

 

さて、ここで、「義務教育で学べる事を得なくとも生きられるからやっぱり意味がないだろ」そんな意見をお持ちの方もいらっしゃると思います。

そうですね、それは間違いありません。

先程敢えて「義務教育を受けなきゃ苦労する」というような表現をしましたが、必ずともそうとも言えません。

教育が間違っている可能性もありますから。

じゃあ、あのユーチューバーの言っていいることが正しい?

そうではないですよね。

そう思うなら、義務教育のコンテンツの不備を指摘すべきですよね。

彼の不登校を社会が認める理由にはなりません。

今の小学校中学校がロボットに見えたから行く意味はない、という感覚が正しくとも、それは先生・学校に申し出るべき案件で、絶対に不登校になっていい要件ではないです。

そう考えると、本当に問題なのは我々大人です。

ここ数年のSNSの発展で顕著になったことですが、一体わたしたち日本国民は何について揉めているのでしょう。

何かを変えるために声を上げているのか?

であれば、こんなに揉める必要が有るのでしょうか。

ただひたすらに、問題を適切なところに訴えるべき、それだけです。

もちろん付和雷同のほうが怖ろしいので、もしかしたらそれよりはいいのかもしれませんが、そんなマイナスな国は御免こうむります。

 

いずれにせよ、大人が問題であるならば、

我々大人が持っている常識が間違っているのでしょうか。

そうであるならば、我々が受けてきた教育は正しかったのでしょうか。


 

下平