2001年(16歳)
・1月、プロレスごっこが役に立ったのかもという出来事が起こった。
友人のマンションに遊びに行った時に、少し距離がある間でその友人が「自動ドアが閉まるから早くこい」というアクションをしたので、走って向かったら…奥しか目に入っていなくて、もう一つ手前にドアがあった…。
顔面から強打し、後ろに吹っ飛んだ。
鼻血が大量に出たが、幸いうまく後転ができて後頭部は打たず。本当これは危なかった。



・1月、高校のスキー合宿
「夜にスパーリングするぞ。」とクラスメイトに煽られてボクシンググローブをなんとなく2組持って行った。
スパーリング大会をやっていると案の定、違うクラスのヤンキーにも貸してくれと言われ貸した。
他の部屋からすごい盛り上がりの騒ぎが散々聞こえてきたあと、二つのグローブがすごく汗臭くなって帰ってきた。とくに片方がひどくて、当時、潔癖だった自分は一つは使わなくなってしまった。



・2月と3月に新日本プロレス後楽園ホール大会へ。
今までプロレスラーに話しかける事ができなかったのだが、3月の後楽園の時に、ジュニアヘビー級時代の真壁さんに勇気を出して声をかけたら、優しく対応していただき写真を撮っていただいた。
初めてプロレスラーと写真を撮れたことに感動と興奮を覚えていたが、帰り道にそのカメラを友人が「落とした」と言い出し、慌てて駅に戻ってあちこち探したが見つからず。非常に悔しい思いをした。

・プロレスごっこ仲間の一人に「絶対ギブアップをしない男」という肩書きがつく。とにかく痛くても苦しくても意地を張っていた。






・ZERO-ONE旗揚げ戦のカードに大興奮

・児童館でのプロレスごっこは相変わらず続けていたが、1年以上もやっているとだんだんエスカレートもしていき、職員の方達にも目をつけられ、注意される回数も増えていた。そのため
(20分31秒、謎の中国人が乱入したため無効試合)
といった結果など、無効試合や戦意喪失のため試合放棄といった残念な結果の試合が増えていった。
毎回、人がなるべくいないタイミングを見計いながら児童館が終わる5時を気にしながら試合をするという流れに限界を感じ始めていた。

・4月、2000年に「全日本プロレス中継」と「リングの魂」が終わり、しばらく「ワールドプロレスリング」だけというちょっと寂しい時に「コロッセオ」がスタート。その「コロッセオ」も終わってしまったが、新たに「プロレスリングノア中継」もスタート。
プロレスの番組が2番組はないと寂しかったので嬉しかった。3倍で録画しながらもビデオがどんどん溜まっていくというのも懐かしい時代だ。

・8月19日
全日本プロレス後楽園ホール大会で観戦。


・2001年からミルコクロコップの左ハイキックにも憧れ始め、暇な時に電気からぶら下がっている紐の先に左ハイキックをするというのが癖になっていて、上達はした。
習っていた極真空手でもサウスポーになった。

・春から秋
シャイニングウィザードが流行、新日本プロレスの大阪ドームや福岡ドーム、6.6&6.8新日本プロレス対全日本プロレスの日本武道館大会、プロレスリング・ノア日本武道館大会、G1、新日本プロレス秋の東京ドーム大会。
毎週、プロレス中継や週刊プロレスやゴングなど楽しみだった。

・10月7日きっかけ
プロレスごっこで使う児童館のあるスペースで試合をしているときは、心霊写真みたいのがよく撮れるということに気がつく。不思議な写真が結構撮れてしまった。

・10月16日
プロレスリング・ノア、後楽園ホール大会で初観戦。


・10月28日
雨の中、公園でボクシングトーナメントを行なったが、高熱なのに来た人間がいたり、さらに試合結果を見ると「腕固め」が決まり手の試合もあり、みんな天然だった。


・12月31日
プロレスラーも総合格闘技に出るようになり、この年から大晦日の総合格闘技を見てから初詣へ行くという流れが定番に。

この年も高校行きながら青春もしながら、極真空手も習いつつ、J-POPやプロ野球や大相撲も気にして、バイトもして、その中でもプロレス熱がすごいので、常に楽しかったんだなと思う青春の年であった。


次回、2002年に続く…