一体感 | 慶應義塾大学体育会男子ラクロス部の日記リレー

一体感

takada

最近野球に関する本を読んだ。内容は、近年のプロ野球の作戦立案や選手分析の変容を、多角的なデータを基に紹介してくれるものであり、昨年のロッテ日本一、あるいは巨人低迷の要因について納得させる要素が多々あった。
だが、それ以上に私がこの本で痛感したのは、野球というスポーツで「一体感、あるいはチームプレー」のプレゼンスが増しているということだ。
この本はそのことについてはさして強調していなかったが、進塁打率と出塁率を重視するいわゆるスモールベースボールとは、つまりチームに貢献するプレーをデータ化し最大限に活かすということと私は考える。
年間打率、本塁打、打点ではなく、得点圏打率や出塁率に重きをおくとはすなわち、いかにコンスタントに結果を残すか以上に、チームを勝利に導くプレーのできる選手を高く評価するということだ。つまり、塁にいるランナーを生還させるバッティングのできる打者および打線と、その得点を守りきれる投手および投手リレーが勝利をもたらす。
単純に打率の高い選手や本塁打を量産できる打線を組んだところで勝てはしないのだ。なぜならそれは個人能力の足し算でしかないからだ。個人成績に、チームプレー、チームワークといった係数を掛け算できるチームが勝つし、その係数が大であればあるほど日本一に近づく。千葉ロッテがそれを教えてくれた。
ちなみにチームプレーとは、ライト方向に打って走者を進めるだとか、盗塁を装ってバッテリーを揺さぶりストレート系の球を多く投げさせるとか、数えればきりがない。こういう要素ひとつひとつをデータ化して勝ったのが千葉ロッテである。

さて、私が何を言いたいのかというと、チームプレー・チームワーク=一体感という要素が、まやかしでなく大いに重視されている傾向である。
野球は正直団体競技とは思えない。常に投手対打者の1対1の個人勝負だと思っていた。しかし、野球における団体競技的な要素と、そのために必要なシーズンを通しての一体感の必要性を痛感するにつけ、野球ですらこうなのだから(言い方が悪いですが)、どうみても団体競技であるラクロスがこれを軽視してよいはずがない。ロッテがプレーオフと日本シリーズを生き残ったように、日本一に至るまでに、この要素が勝負の分かれ目になることは明白だ。しかも全日の12月だけ一体性を持っていればよいというものでもない。「シーズン通じての」一体性が問われていると思う。

そこで現在のチーム状況を省みるに、リーグ戦も始まっていない、早慶戦などといった大会もない、もうすぐ試験休みに入るなど、なかなか目標を定めづらい時期である。それはやむをえないとして、このような時期こそ、逆に一体感について考え直す適時ではないだろうか。リーグ戦で苦境に陥ってから一体感についてミーティングをしてみても手遅れだろう。第一こういう類のものはミーティングすればするほどよくなるというものではない。かと言って私に妙案はないが、こういう課題を考える非常によい時期だとは思う。

最後に、一体感という語感について思ったこと。掲示板などネット上にアツい書き込みをすることについて、それは非常に素晴らしいし、個人的にそういうカキコを読むのは好きだ。けれども、それは書き手本人および一部読者の士気を鼓舞することにはなっても、一体感には結びつかないと、勝手ながら思う。というのは、一体感とは、「一体」であることを「感」じることであり、「一」つになっていることを「体感」することとも解釈できるからだ。体感できるのは、あくまでフィールドの上。一体感という語を意識していただくときに、それだけは断っておきたい。

では、お次は、MEGUMI系の顔に似合わぬ闘志の持ち主、チャームポイントの前歯を負傷したりブランクあったりしたけど声を張り上げ張り切ってる姿には元気付けられる彼の登場です。ハンデを越えて強くなる大器、事実上最後のハイツァー、松崎君です!名文をとくとご照覧あれ。打倒国立!(※くにたちとも読みます)