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今日もありがとうご財増す🌈
ニャニャ~♬
(ワンちゃんとワンネスごっこだお❗)
スピリチュアルに興味があれば、
龍が視えるとか、ペガサスが視える、ユニコーンが視える、守護霊や精霊、ご先祖さまが視えるなどなど、視えないとされる❓存在が視えたらなあっていうことがあると思います。
ウンウン !!
勿 & 論、僕もそうです。
ソノ トーリサ、 ベイベー
でも、
そういった存在が『視える』ということだけが『視える』ということではないと思っています。
例えば、
自分でも氣づかなかった生き癖や思考癖に氣づくということも、立派な『視える』ということだと思いますし、
食事をする際、食べ物さんたちの命を思いやることや、食材を販売する方々、運送する方々、そして生産者の方々のお陰様を想像することだって『視える』ことだと思います。
10年前なら、こんなふうに受け止めていたことも、今では違うように受け止められるようになったと振り返ることが出来ることも立派な『視える』ことだと思うんです。
アイツの嫌な面ばかり意識して不愉快になっていたけど、アイツの佳い面に気づいたら、なんだか見る目が変わった、というのも『視える』ことだと思うんですよね。
誰かの表情を見たり、声を聴いたりして、その人がどんな心の状態なのかを感じ取るのも『視える』ことだと思う。
もしかしたら、五感を使って感じ取れるものが『視える』ということなのかもしれない。
また、
対極の向こうには、いつだってもうひとつの対極があるのに、どちからの一極ばかりに固執してしまい、もう一方の対極が『視えていない』ことって、よくある話ですよね。
ソレハ オマエダロ
双方の対極があってこそ両極が成立しているということを分かっているつもりではいますが、僕の場合はどうも思い込みが強すぎて、自分だけの世界しか『視えていない』ことが多いです。
ヨク ワカッテルジャナイ
『視えない』というのは浅い呼吸の時が多くて、逆に『視える』というのは深い呼吸が出来ている時だと思います。
ウム
あくまで僕の場合ですが、
龍が視える、ユニコーンが視える、ペガサスが視える、守護霊や精霊、ご先祖さまなどが視えて、会話が出来るようになるのは、
いかに自分がたくさんのお陰様で生かされているか、
いかに毎日、大いなる豊かな恵みを頂けているのか、
いかに喜びや有り難みで満ち溢れた世界で生かされているのか、
この人も、あの人たちも、色々なものを抱え、背負いながら一生懸命に生きているということ、
などに、氣づけるようになってからかもしれませんね。
シランガナ
感謝と謙虚さ、
ふわふわ感とユーモア、
そして深い呼吸を大切に生きよう。
シッカリ ヤレヨ ?
今日もありがとうご財増した🌈
バイニャラ♬