菅谷館跡 埼玉県嵐山町観光協会HP
たくさん撮影しましたが、それだけ広大な館跡だったということです。
びっくりしました。
館跡?というより、平城跡。
嵐山町(らんざん)HPなどを読んでみたら、あの広大な館跡の形態は、戦国時代に築かれたもので畠山重忠当時のものではなく、館が建っていた場所もはっきしていないのだとか。
こんな説明は、帰宅してから読む私なので、ただただ、戦闘態勢に適した館?跡ね、と興奮しながら観てきました。
大蔵館跡を観た後、ひろびろとした田園の中、都幾川添いに森が見えて、それが菅谷館跡だった・・・みたいな環境です。
国道254バイパスから入りました。
入る時点で、「何?この土塁!!」と興奮しました。
二重土塁 説明板
これは、堀跡でしょう?
右手は、土塁。
二重の土塁があります。
入ってきた道を振り返る。
たぶん、堀を埋め戻して通路にしたのね。
両側は土塁。
駐車場用に土塁を切っちゃったのかな?
いえいえ。こちらは搦手門跡があったようです。
喰い違い虎口(伝搦手門跡)説明板
二重の土塁の中にある駐車場は広大
埼玉県立嵐山史跡の博物館
~国指定史跡「菅谷館跡」内に建つ中世武士の博物館~
エントランス
続日本100名城スタンプは、ここで。
埼玉新聞
さて、散策しましょう。
菅谷館跡 案内板
三の郭方面へ行きます。
国道に向かって立つ。
三の郭の立派な土塁が左手に見えます。
国道側に行ってみます。
右手に少し見える建物は駐車場にあるトイレ
トイレの国道側
土塁で囲まれていますね。
左手は、堀を埋め立てたのでしょう。
奥の旗指物のあるところが、博物館前の搦手門跡。
三の郭側を見ます。
両側に土塁
これ、自動車用に切ったのかなぁ?
さて。
三の郭跡
広大です。
武士や騎馬の集合場所?
時間がないので割愛。
本丸を目指して北進します。
右手が三の郭跡
左手に博物館
畠山重忠と菅谷館跡 説明板
畠山重忠は、長寛2年(1164年)、※畠山庄司重能を父とし、相模の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現 大里郡川本町畠山)に生まれました。
以下読めば、人格もバッチリだった人物だったんですね。
帰宅してから、録画してある『鎌倉殿の13人』を見返してしまいました。
※重忠のパパ畠山重能は、菅谷館近くにある大蔵合戦で、「義賢の次子で、当時2歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斎藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これが、後の旭将軍木曽義仲である。」という方。
人情あるDNA。
広い曲輪跡が左手に見えました。
さすが国指定史跡。
お手入れバッチリです。
あの木々の向こうは、堀かな?
土塁上に木々が育っているようです。
土塁あるあるです。
本丸目指して進みます。