『天神山の古武士の霊』 (愛知県郷土資料刊行会刊より)


注)「ドクロ」マークはブログ筆者小心者マークですので悪しからず


 

現地現在の写真。法華寺と古武士慰霊碑
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左手奥が法華寺。右は、水田を埋め立て工事中。
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「わたしたち(話者の河和中学生、須田充美さん)の村には、法華寺という古いお寺があります。


このお寺は、関ヶ原の合戦ころまでは、ずいぶん大きなお寺だったそうです。当時、たくさんの僧兵たちがこの地で暮らしていた面影は今ではまったく残っていません。

 最近、お寺の近くにお籠り堂がつくられました。実はこのお籠り堂にまつわる話が今、村の話題になってます。それは今から5年前、矢梨に住んでみえる御岳行者さんに神のお告げがあったことに始まります。そのお告げとは、

「この地 矢梨にある天神山と称する山に、昔、城があって、そこで大ぜいの武士や村人が殺された。(中略ドクロ)」


 昔、この村の天神山にお城があり、お殿様は、三好朝臣倫重という人で、300名くらいの武士が仕えていました。

近くには、今も残る法華寺があり、ここもたくさんの僧兵がいたのです。


もともと平和な村で、人々は豊かにくらしていたと思われます。

 ところが、当時、世の中は豊臣秀吉が死んで、石田三成を総大将とする西軍と、徳川家康のひきいる東軍とが対立の最中でした。


 西軍に組みする九鬼水軍は、東軍を混乱させるため、三河や知多を急襲する作戦に出ました

矢梨の法華寺もこの時襲われたのです

海から、しかも夜陰に乗じての不意打ちですから、どうすることもできません。

寺は、敵の手兵である菅野平右衛門によって火をはなたれ、僧兵たちの必死の抵抗にもかかわらず、焼き尽くされてしまいました。

その時空高く燃え上がる炎が、天神山のお城を浮かびあがらせ、敵はその炎をたいまつがわりに、今度はお城に攻撃をかけたのです。

お城の武士たちは必死で戦いました。

しかし、戦いなれない平和な村の武士のかなう相手ではありません。

たちまち150名ほどの戦死者を出してしまったのです。

さらに、引き上げようとする九鬼勢と海岸で二度の壮絶な戦いがくり返され、そこで残った武士はことごとく切り殺されてしまいました。

(中略ドクロ


あの、お籠り堂ができてからというものは、変死者はまったくとだえています。

村の人たちの熱心なお籠り堂でのお祈りが、武士たちの霊をやすらかに眠らせたのでしょう。」



古武士慰霊碑
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平和に暮らしていた矢梨・・・


現在は、潮干狩り場として有名ですよね。





この「関ヶ原の合戦に乗じて」九鬼水軍が急襲するお話は、南知多町内海の岡部城の説明板にもありました。
http://ameblo.jp/keikostory/entry-11787491776.html

岡部城の風呂谷にあったお寺が九鬼水軍によって焼き打ちされたと。


民話での岡部城は、嫁取り争いで負けた吹越次郎が、家老である父親と共謀し、師崎の千賀をそそのかし、岡部城を焼き打ちしたとしていました。
http://ameblo.jp/keikostory/entry-11793297568.html


ということは、岡部城の焼き打ちの時期は、関ヶ原の合戦より以前のことだったということでしょうか?


岡部城が焼き打ちされた後で、風呂谷に建てられたお寺が九鬼水軍に焼かれたということでしょうか。


いずれにせよ、九鬼水軍に関しては良いイメージがもてないですね・・・ドクロ