きょうは、暖かい小春日和晴れ

こんな日はドライブ車がてらの城跡めぐり。

家事、買い物などを手際よくすませて好きなことをする。

この手順が大事ですね。


まもなく仕事で忙しくなるので、今のうちに見ておかないとね。


名鉄河和駅から南側に見えるこんもりしたお山が城跡でした。


知多半島道路を利用し、美浜ICで下りて、名鉄河和駅方面へ。


美浜町役場を過ぎてすぐの交差点を右へ行くと「大門」といううどん屋さんの名前あり叫び

「間違いないひらめき電球」とリアクションした私

新江川という川を渡ると知多厚生病院がありました。

知多厚生病院駐車場あたりから細い道を車で登るとコンクリート製の塀と門があります。その中が駐車場。この登城路は、そこにありました。
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河和城跡説明板:「河和城は、渥美半島の田原城主戸田氏によって造られた戦国時代の城です。「城」というと姫路城のような天守閣や石垣を想像するかもしれませんが、戦国時代の城には天守閣や石垣はありません。河和城をはじめ戦国時代の城は、「土塁(どるい)」や「横堀(よこぼり)」などの遺構が良好に残っています。

曲輪(くるわ)」とは、土塁や横堀などで防禦をされた平らになった場所です。曲輪の中でも特に中心的なものを「主郭(しゅかく)」と言います。主郭は、江戸時代の城に例えると、天守閣があった場所になります。頂上の広い平らになった部分が河和城の主郭です。

土塁(どるい)とは、土を盛って高くした帯状の場所です。土で壁を造り、敵の侵入を防ぐ施設です。河和城では主郭の西側に残っています。

横堀(よこぼり)」とは、曲輪(くるわ)を取り囲むように掘られた堀です。大きな溝で敵の侵入を防ぎます。河和城では主郭の西側に残っています。

 ほかにも櫓(やぐら)や柵(さく)などの施設があったと思われます。

 1590年(天正18年)8月 秀吉の小田原攻めに出陣した当時の城主戸田孫八郎守光小田原で戦死します。戦死の知らせを聞いた河和の人たちは河和城を攻め、河和の人たちによって河和城は壊されました。戸田孫八郎守光の妻子は姓を「戸田」から母方の姓である「水野」に改め、関ヶ原の戦い後、河和に帰ることができました。このようにして河和城は壊されましたが、今でも地元では、河和城のあった山を「お城山」と呼んでいます。」



登城路を仰ぎ見る。
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登城路周辺
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登城路脇にあった巨木の異形。毎度、こういう異形を見ると城跡を実感します。
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登城路てっぺんには、幼稚園の運動会が開けそうなくらいの主郭が。
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主郭武節城の本丸くらいの広さです。
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主郭にあった桜の木。青空に映える桜の花がきれい(=^エ^=)
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主郭から見た河和港方面。南知多町師崎の羽豆崎城跡からも海の眺めが良かったですよね。
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主郭周囲に土塁が。この写真の立札の向かって右下には深い切岸があり、横堀があります。
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土塁
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主郭の縁に土塁が。竹林の奥に見えます。
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横堀
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横掘。意外に深く、しっかりした横堀です。知多半島にこんなしっかりした防御システムのお城ってあったかなぁ叫び? 大野城跡は土塁が高かったし曲輪がしっかりしていたけど横堀はなかったような。大草城跡も土塁が高くて水堀が周囲にあって曲輪がしっかりしていたけど横堀はなかった。大草城は標高が低いですからしかたないとしても。大草城みたくこの河和城も結構しっかり遺構が残っているんですね。

そういえば、豊田市の松平城跡や作手の文殊山城跡古宮城にもしっかりした横堀が残っていました。でも、この河和城の横堀は結構ダイナミック叫び 諏訪原城跡の横堀並みです。

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横堀の端に曲輪跡が。
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主郭の真ん中に謎の窪み。
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主郭北側?の窪み。立ち入り禁止区域なので、何なのか確認できません。
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それにしても青空がきれいニコニコ。きょうは暖かいし。
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登城路を下りて道路を上がると「城口観音」がありました。おそらくここがかつての大手だったのでしょう。
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城口観音の奥に見える山が河和城跡。現在の登城路は、写真向かって右方向にあります。
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写真向かって右手に城口観音。この道は下る道です。
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上の城口観音の写真向かって左側に下ったところにある民家の門。立派です叫び昔ながらの風情です。
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さらに道を下ると、こんな細道が。人一人しか通れない道。
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民家がとにかく古い体裁でしたね。


お蔵もありましたし、屋敷自体が大きい。


新しいお宅もありましたが、基本的に昔から代々そのまま続いてきたようなお屋敷が周囲には多いと思います。


西側の知多厚生病院周辺には新興住宅地がありましたが。


城口観音から海側方面に下る車道は細いので、城下町である「屋敷」内の道路を走るのは大型車では無理ですね。


クラウンあたりなら何とか通行できるような道幅です。


これが古くから代々伝わってきているお屋敷の証なんですけれどね。



戸田」姓といえば、大垣城周辺に戸田さんのお屋敷が多いんですよね。


確か、大垣城主もいろいろ変わりましたが、最終的に江戸時代の大半は「戸田」さんが城主だったと思います。


田原城の戸田さんと関係があるようですね。


田原城の戸田さんは、徳川家康が幼少のころ、今川に人質として差し出されるとき、竹千代を織田方に売り飛ばして、名古屋市熱田区の加藤図書之介のお宅に幽閉されるようにしちゃった戸田さんね。


河和の人たちもそのことを知っていたのかな?


だから、小田原の戦いで河和城主が戦死したとき、民衆が城をうち壊したのかな?


縄張図参考ブログ)

http://homepage2.nifty.com/yogo1394/aiti/mihamamati.htm