じっくり見たい城跡だったし、見ていない水の手曲輪があったので再訪しました。


気温は4℃くらいだったかな?


寒かったんですが、ロングのダウンコートとカイロ持参で行きました。


山登りの洋装ではないですねガーン


こんなに寒いのに、どうしてそこまで城跡に執着するのか?


マムシやクマさんやイノシシくんたちに出会いたくないからですガーン


中世の山城関係者は、どう対策をとっていたのでしょう?


さて、今回、松平乗元の大給城跡を再訪して驚いたのは、主郭や腰曲輪のあちこちに現代人のゴミが散らかっていたこと。


キャンプをしに来ていた方々もいらっしゃったので、割りと人の出入りが多い城跡のようです。


豊橋の吉田城は巨木があちこちにありましたが、大給城は巨岩がゴロゴロショック!


虎口の近くに堀切があるんですが、これを探索してみたら、堀切の櫓台部分が巨岩で、その堀切自体もあちこちに巨岩があるという様。
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写真左側は櫓台の土台にあたる巨岩(堀切内部からの撮影)
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細い登場路を登っていくと、広い門跡(虎口)の両脇に櫓台跡がありました。
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虎口(入口。門跡)への狭い登城路(下から見たところ)
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虎口(入口。門跡)への狭い登城路(上から見たところ)写真奥には櫓台跡(堀切から見た巨岩が土台の)
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虎口(入口。門跡) 両側は櫓台跡
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中に入ると、土塁に囲まれた郭がありました。(出入り口は3つ。二の丸みたいなものでしょうか。)
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さらに比較的小さい石で野面積みされた石塁に向かって行くと、その向こうの一段低い場所に広い主郭があり、視界が開けましたニコニコ
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環状道路が見えるし、快晴であれば鈴鹿まで見えるようです。


夜景がきれいに見えるそうですし、夕陽ももちろんきれいに見える場所だと思います。


この主郭の縁にも自然の巨岩がゴロゴロありましたショック!
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ロッククライマーが喜びそうショック!


出入りするマニアが多いせいか、本来使われていなかった所に道ができていたように思います。


さて、その巨岩を見ながら西側?へ下ると腰曲輪がありました。
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大きな曲輪は、主郭を入れて3つくらいありました。


一番低い場所にあった南側?の曲輪(ハジヤウ曲輪=羽城(はじょう)?)はとても広く、キャンプをしていた方々がいらっしゃいましたショック!


北風を遮る場所なので快適なのでしょう。


「ハジヤウ」は「羽城」と私は解釈したんですが、この「羽城」という言葉。


地名でもあちこちで見かけます。


お城跡の近くで見かけます。


緒川城の近くにもありました。


http://www.oshiromeguri.com/okazaki/22yahagi.html →この方の考え方によれば、羽城の「羽」は「端」という意味で、お城の端っこという意味だとか。


この大給城の縄張図から考えると、もっともな考え方ですよね^^。真実はいかに?



さて、目的の水の手曲輪。


意味がわからないまま見に行きました。


先入観無しに見て、私がどう見るのか興味があったので。


水の手曲輪は、巨岩まみれの一番広い郭がある南側?とは反対側の北側?下方にありました。


野面積みで堰が造ってあり、真ん中で堰が切れていました。
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堰の真ん中の切れた部分
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水の手曲輪をななめ上から見たところ。右の焚き木状のものはキャンプに訪れた人たちの仕業でしょうか。
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これを見て、「こんな所にダムを造ったのショック!!?」というのが率直な感想。


井戸のようなものもありました。
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その堰から下方にも貯水槽のような跡がありました。
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このシステムは、この後訪れた松平郷(大給城跡よりさらに車で山を上に上った所にある)の高月院という松平親氏の菩提寺から南側下方にもありました。


少しの雨水も貯めておこうというものなのでしょう。


大給城跡のそれは大規模でした。


砂質土の山城なんですが、ちゃんと貯水できる場所を選んで掘削したのでしょうか?


地質は、大半が枯葉に埋もれていてわかりませんでした。


それにしても、その水の手曲輪をよほど厳重に守っていたのか、登場路側から浸入してきた者を遮断するための深い堀切がありました。


こういうトリックを見ると、防御する側の必死さが伝わってきます。