ここへも何度も行きました。

なので変化がよくわかります。

かつては草ボウボウで放置態だったのに、きょう行ってみたら、きれいに整備されていました。

東條城址石碑
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法応寺説明板 :
「眼下の県道を隔てた東條城北側の丘上には、かつて康忠山法応寺が所在した。
 法応寺は永禄年間に、吉良氏落城後の、東條城に入った松井忠次(後の松平康親・親藩大名松平周防守家の祖)が、主君の東條松平氏の追善のために建立した寺である。法応寺は、昭和30年代に廃寺となった後、土砂採取が行われたため景観は一変している。
 寺の裏手には、天正11年(1583)に三枚橋城(沼津)で没した松平康親の墓所が現存していたが、平成23年に、康親の顕彰碑と共に、吉良町岡山の花岳寺境内に移築された。 西尾市教育委員会」
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三の丸跡説明板:
「この区域一帯が三の丸跡です。
 中世の城には、後世に見るような堅固な石垣や、華麗な天守閣など無いのがふつうでした。この東条城は、中世の姿がよく保存された城跡です。重臣の役宅などが、この辺りにあったかもしれません。
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本丸跡から見た三の丸跡
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本丸跡説明板 :
「この区域一帯が本丸跡です。
 ここは城防衛の最後の拠点となりました。周囲は堅固な土塁や柵でとり囲まれていました。現在の復元土塁の数倍近いものであったと思われます。また、いろいろな建物もあったことでしょう。」
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東条城古図
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復元された物見櫓
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このお城には、二の曲輪、三の曲輪、本曲輪跡地がありました。

本曲輪跡地には、模擬物見櫓が復元されていましたし、柵も復元されていました。

家康のグランパが25歳で尾張守山城で殺害されたあと、家康のお父さんが匿われたお城なのだそうです。

道路から登る坂道は細く、曲輪は切岸という絶壁状態の上にあります。

人工的に崖にしたので、敵は登れませんよね。

でも、後々、18歳の家康にゲットされてしまうんですが。

歩いた感触では、砂地なのかなぁ。

旧住所も幡豆郡吉良町横須賀みたいだし。


「須賀」は砂地を表しますよねぇ。


そんな平山城でした。

近くの山も城郭の一部だったようですが削られていて、その山肌を見ると砂でできたような山でした。

足利氏がいたくらいの時代のお城(館)だから、歴史は古いみたいですね。


http://www.geocities.jp/shimizuke1955/1937tojo.html


http://www.geocities.jp/katoshiro3594/mikawa_no_shiro/kira/toujyo.html


http://www15.ocn.ne.jp/~yawa/menew/mikawa/shiseki/nishi/tohjyo.j/tohjyo.j.html


http://blogs.yahoo.co.jp/kanezane2/19943604.html

↑この方のブログを読むと、やはり歩いて回らなければ意味がないですねぇ。


あと、30年ほど前までの詳細な地図があれば。


昔の地名で載っていますからね。


10年ほど前に地名がゴロっと変わってしまってから、その土地が持つ意味がわからなくなってしまいましたからね。


住所を書くとき長々と書かなくてすむようにはなりましたが、歴史的意味合いから見れば、まったく意味のないことをしてくれた・・・と私は思っています。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B3%A2%E7%95%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%87%E5%B2%B8