国道1号線を西から走って行き、東海道五十三次のひとつ、藤川宿をスルーして間もない山々の中にありました。

名鉄と東海道は谷間を走っているのね。

さて、「山中小学校北」という信号交差点を南に曲がると、左手に羽栗病院が見えてきたあたりの右側の山が、山城っぽい。

そう。

「ぽい」のよ(-_-;)

明確な地図がないし、ナビにも出ていないお城趾(-_-;)

ん~(-_-;)

水田ばかりのむこうの山のふもとには、パーキングさえみあたらない。

ほんとに山城趾なのかしら(-_-;)?

こんな疑問を持ち、道にまよいながらたどり着いた城趾でした。

案内板も見過ごすような小さなものしかない。

変ね(-_-;)?

そう思いながらも、やっと大きな案内板を見つけ、車を降りました。

山中城跡説明板 :
「岡崎市指定文化財 史跡 山中城跡 565平方m
 岡崎城主西郷信貞の居城であったが
大永4年(1524)安祥に居城していた松平清康の奇襲を受け一夜にして落城した。その結果、
信貞清康に屈し岡崎城をも明け渡すことになった
 この城跡は、標高196mの山頂を中心に主郭を中心として、東、東北、西北に延びる尾根筋に郭を重ねた連郭式の遺構を残す県下最大級の規模をもつ山城である。現在残されている山城の中でも、その遺構を良く残しており、貴重な史跡といえる。 昭和37年6月15日 指定
岡崎市教育委員会」 
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岡崎観光文化百選 山中城址説明板 :
「この地は、鎌倉街道南海道に接する、重要な場所でした。
西郷信貞は、ここに城を築き東三河の守りを固め、西三河を制覇しようとしていました。しかし、松平清康(家康の祖父)に夜襲をかけられ落城してしまいました。信貞清康を恐れ、和を求めて岡崎城もあけわたすことになります
 三河地方最大規模の山城跡は、よく保存され、居館や曲輪跡から、当時の山城のしくみを知ることができます。」
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なぜか、人の背丈ほどの柵が山沿いにしてあり、入口の柵をあけたら閉めておくように、という指示がありました。

さて、山道を登り始めると、ようやく案内板が。

ちょっと、ほっとしました。

山中城址遊歩道の道標
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遊歩道なので整備されています。
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平坦な細い道
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さらに登る
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森林の中を、細くて勾配のある登り坂をひたすら登っていきました。
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左側は切岸でしょうか。これを右側へグルリと登っていくと本丸跡がありました。
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途中「土橋」と呼ばれる両側が崖のようになった細道を歩いたり、曲輪(くるわ)と呼ばれる平らに削った土地や崖際の細道を登って行ったら、ようやく本曲輪(本丸)跡地にたどり着きました。

山中城址碑
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山中城跡図
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本丸跡は、先日行った、可児市の明智城ほどの広さでした。
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本丸土塁跡
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土塁に囲まれていましたし、小さな神社もありました。

森林の中に木漏れ日がさす静かな山頂でした。


枯葉で埋まった山頂からすぐに下山したんですが、これまた急な細い坂道。

途中、帯曲輪や大きな堀切を見つけました。


大規模な堀切
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下る道
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ふもとが見えてきました。登城した道とは違う地点です。
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出口が見えましたDASH!
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ところで、柵があった理由。


地元の方に聞いたら、巨大なイノシシが山にいて、作物を荒らしに出てくるのだそうですショック!DASH!


遭遇しなくてよかった~(-_-;)DASH!


だから、愛犬は鼻をヒクヒクさせていたのね(-_-;)


山城趾はコワイ(-_-;)


ちなみに、このお城は、家康のおじいちゃんがゲットしたお城なのに、おじいちゃんは25歳で尾張の守山城で殺害されてしまった。


その後、今川軍の西三河進出の拠点となった。


桶狭間の戦い(家康17歳時)後、20歳の家康が攻略したそうです。


でも、石垣は無かったんですよね。


簡単に落とせそうな山城だと言っていた人がいましたが、家康ゲット後も石垣を造る必要がなかった(-_-;)?


家康が関東に行ってしまってから、廃城になったようです。