昭和三十年代のある日、僕と弟、それに兄貴のような存在のようちゃんは、練馬区の三宝寺池へと遊びに出かけた。そこには池に面した小さな洞穴があり、中には古びた蛇の置物が鎮座していた。
その日も僕たちは洞穴で探検ごっこをしていた。ひんやりとした空気の中、石を並べて秘密基地のようなものを作りながら、幼いながらに自分たちだけの世界を楽しんでいた。ところが、不意に外からパンッと鋭い音が響いた。驚いて洞穴の入り口に駆け寄ると、そこには数人の不良がいた。彼らは手にした爆竹を次々と鳴らし、その火薬の匂いがあたりに充満していた。
「こんなところで何やってんだよ!」
ようちゃんが一歩前に出て、不良たちを睨みつけた。ようちゃんは中学二年生で、僕たちにとっては頼れる兄貴分だった。彼がいればどんなことも大丈夫な気がした。
「お前らには関係ねぇだろ。」
不良の一人が吐き捨てるように言った。
「ここは俺たちの場所だ。爆竹なんか鳴らすな!」
ようちゃんは一歩も引かなかった。僕たちもその背中を見つめながら、小さく拳を握りしめた。
しかし次の瞬間、喧嘩は始まった。相手の不良の中には中学一年生が数人いたが、彼らは容赦なかった。ようちゃんはすぐに劣勢になり、抵抗する間もなく殴られ続けた。僕たちは怖くて何もできなかった。砂埃の中で、ようちゃんが倒れる姿をただ見つめていることしかできなかった。
「もうやめとけよ。」
不良たちは勝ち誇ったように笑いながら去っていった。
僕たちは傷だらけのようちゃんを支えながら、黙って帰り道を歩いた。励ましの言葉をかけることもできず、ただ彼の痛みに寄り添うように肩を並べていた。
それからというもの、僕たちの中でようちゃんは変わってしまった。今まで頼れる兄貴だった彼が、ただの年上の男の子になってしまった気がした。あの日、僕たちのヒーローは、ヒーローでなくなったのだった。
フィレンツェの駅のホームに冷たい風が吹き抜ける。けいこと私は、ベニスへ向かう特急列車を待っていた。けれど、頭上の時刻表には無情にも「1時間遅れ」の表示が浮かんでいる。
「どうする?」私はけいこに尋ねた。
「とにかく誰かに聞いてみよう。」
ホームには数人の尼さんたちが並んでいた。黒い修道服に身を包んだ彼女たちなら、きっとこの駅に詳しいに違いない。私は意を決して英語で尋ねた。
「Excuse me, when is the next train to Venice?」
しかし、彼女たちは一瞬顔を見合わせると、申し訳なさそうに首を振った。どうやら英語は通じないらしい。
私はため息をつき、けいこを見る。彼女はじっと遠くを見つめていた。そして、突然目を輝かせる。
「次の列車、絶対に国際列車よ!」
「え?でも時刻表には——」
「そんなの当てにならないって!あれに乗るわよ!」
そう言うが早いか、けいこはスーツケースをつかんで駆け出した。私は半ば呆れつつも、彼女の後を追う。
列車の扉が開く。迷っている暇はない。私たちは勢いよく飛び乗った。
夕暮れのフィレンツェは、まるで絵画のようだった。アーモンドいろの光が石畳を染め、歴史を刻む建物が穏やかに影を落としている。私たち二人、みかと私は、トスカーナの夜風に誘われるまま、路地を彷徨いながら小さなリストランテの扉を押し開けた。
イタリア語がまるでできない私たちは、メニューを手にした瞬間に顔を見合わせた。読めない。何一つわからない。見慣れた単語すらない。隣のテーブルではワインを傾ける客たちが談笑し、香ばしいチーズの香りが漂ってくる。どうしよう、と囁き合っていると、陽気なウェイターがにこやかに話しかけてきた。
「Signorine, cosa desiderate?」
「えっと……」私は口ごもりながら、ウェイターの優しい笑顔に縋るように言った。「お、おまかせで……!」
ウェイターは目を輝かせ、「Perfetto!」と声を弾ませた。そして、すぐに厨房へと消えていった。
ほどなくして運ばれてきた料理の数々は、まるで芸術品だった。アンティパストの盛り合わせは、しっとりとしたプロシュートに、甘いイチジク、トリュフの香るチーズ。次に運ばれたパスタは、濃厚なソースが絡むタリアテッレ。噛むたびに旨味が口の中で溶ける。メインのフィレンツェ風ステーキは、驚くほどの柔らかさで、オリーブオイルと塩だけで完璧な味が完成していた。
「やばい……これは美味しすぎる……」みかが恍惚の表情で囁く。
「本当に……これ、人生で食べた中で一番かも……」
赤ワインを片手に、幸せの余韻に浸る。異国の夜、心地よい音楽、そして極上の料理。私たちはこのまま夢の中に落ちてしまいそうだった。
しかし、現実は甘くなかった。
「Grazie, il conto per favore.」そう告げた瞬間、ウェイターは満面の笑みでレシートを差し出した。
——€250
「……え?」
「……に、にひゃくごじゅう?」
私たちは目を見開いた。震える手でレシートを指差し、お互いに確認し合う。間違いじゃない。まごうことなき€250。
「ちょ、ちょっと待って、パスタとお肉と……ワイン?」
「でも、こんなに高いなんて……!」
脳内で円に換算するのをやめた。心が折れる。
ウェイターは悪びれもせず、さも当然といった顔で微笑んでいる。きっと彼はわかっていたのだろう。観光客の女の子たちが、無邪気に「おまかせで!」と頼んだ瞬間から、この結末が決まっていたことを。
「……払うしか、ないよね?」
「……うん。」
私たちは震える手でカードを差し出した。
かくして、フィレンツェの美味しすぎるディナーは、予想外の代償とともに幕を閉じたのだった。
フィレンツェの街は、午後の陽ざしに黄金色に輝いていた。石畳の道を歩くたびに、歴史の重みを感じる。けいこと私は、ヴェッキオ橋を渡り終えたところの広場で一息つくことにした。
「ねえ、あのジェラート、美味しそうじゃない?」
けいこが指さしたのは、小さなジェラテリアのショーケース。私は頷き、二人で店の前へ向かった。そのときだった。
かすかにポシェットのひもが揺れた。
「ちょっと、あんたのバッグ!」
けいこの声に振り返ると、小さな手が私のポシェットをまさぐっているのが見えた。10歳くらいの少女と、その後ろに隠れるように立つ小さな弟。二人とも薄汚れた服を着ていて、目だけが妙に大人びていた。
「ダメよ」
けいこがピシャリと言い放つと、兄弟ははっと目を見開いた。弟は姉の袖を引っ張りながら、何かを訴えているようだった。姉は無言で私を見上げると、すばやく手を引っ込め、弟の手を引いて走り去った。
「……危なかった」
私は安堵の息をつきながら、ポシェットを開けて中身を確認した。財布もスマホも無事だ。
「フィレンツェの街にはね、ああいう子たちが結構いるのよ」
けいこは肩をすくめながら、ジェラートのカウンターへ向かう。
私は去っていく兄弟の背中を見つめた。生きるための術なのだろう。それでも、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
「ほら、早く決めなさいよ。溶けちゃうわよ」
けいこの明るい声に振り向くと、陽ざしを浴びたジェラートが、まるで絵画のように輝いていた。
銀座の街が、ゆったりと午後の日差しに包まれていた。歩道を行き交う人々の影が長く伸びる。昭和三十年代の東京、戦後の活気が満ち始めた銀座の大通りに、資生堂パーラーの白いファサードが静かに佇んでいた。
「お父さん、アイスクリーム、食べてもいい?」
小さな手を引きながら、母が微笑む。「お行儀よくしていたらね」
店の扉を開くと、すっと甘いバニラとコーヒーの香りが鼻をくすぐる。店内には白いテーブルクロスがかかり、磨き上げられた銀のカトラリーがきらりと光る。窓際の席に案内されると、赤いベルベットの椅子がふわりと身体を包み込んだ。
「今日はごちそうだぞ」と、父が新聞をたたみながら笑う。週末のささやかな贅沢、家族で銀座に出て洋食を楽しむのが、我が家の習慣だった。
ウェイターがひんの良い所作でメニューを差し出す。「お決まりになりましたら、お呼びくださいませ」
子供の私は、迷うことなく指をさした。「プリンアラモード!」
母がくすくすと笑う。「それはデザートでしょう? 先に何かお食べなさいな」
父はナポリタン、母はビーフシチュー、私はようやく決めたオムライスを注文した。ほどなくして、湯気を立てる料理が運ばれてくる。銀色のスプーンを手に取ると、母の「ゆっくり食べなさいね」という声が聞こえた。
オムライスのとろりとした卵を割ると、中から温かいチキンライスが顔を出す。ひとくち運ぶと、ほんのり甘いケチャップの味が広がった。
「おいしいね、お母さん」
「ええ、ほんとうに。資生堂パーラーのビーフシチューは特別よ」
父がナポリタンのフォークをくるくると回しながら、「こういう店に来ると、東京もずいぶん変わったと思うな」とぽつりと言った。「戦争の頃は、こんな風に家族で外食なんて夢のまた夢だった」
母が静かにうなずく。「でも、こうしてみんなで食卓を囲めるのは幸せなことね」
やがて皿が空になり、待ちに待ったプリンアラモードが運ばれてきた。つややかなカラメルの上に生クリームとさくらんぼが乗った、夢のような一皿。私はスプーンを持ち上げ、そっと口に運ぶ。甘さの中にほろ苦さが広がり、思わず目を細めた。
窓の外を見ると、銀座の通りにはおしゃれな帽子をかぶった女性や背広姿の紳士たちが歩いている。ネオンサインが灯り始め、街はまた別の顔を見せる時間に差し掛かっていた。
「さあ、そろそろ帰ろうか」
父の言葉に、私は名残惜しく最後のひと口を食べる。母がそっと私の口元を拭ってくれた。
資生堂パーラーを出ると、夜の銀座の気配が近づいていた。遠くに見える和光の時計台が、静かに時を刻んでいる。家族三人、並んで歩く。
そのぬくもりが、私の記憶にそっと刻まれていった。
夕暮れの下町。昭和三十年代の夏は、アスファルトではなく、まだ土の道が多く、子どもたちの裸足の足跡があちこちに残っていた。商店街には色とりどりのたなばた飾りが揺れ、風鈴の音が涼やかに響いている。
十一歳のけいこは、小さな手に短冊を握りしめ、家の前に立てられた笹の枝を見つめていた。短冊には、小さな文字でこう書かれている。
「お父さんとお母さんが元気になりますように」
けいこの父は、戦争から帰ってきたあと、からだを壊し、寝込むことが多くなった。母も工場で働きながら家のことをこなし、疲れがたまって最近は咳が止まらなくなっていた。まだ幼い弟と妹の世話も、けいこが手伝わなければならない。
学校の帰り道、近所のおばあさんが「たなばたさまに願いごとをすると叶えてくれるよ」と教えてくれた。その言葉を聞いたとき、けいこはすぐに笹を探しに行こうと決めた。
短冊を結ぶ手が少し震えた。「叶いますように」と心の中で何度も唱える。そっと顔を上げると、空には薄紫の夕暮れが広がっていた。
そのとき、商店街の方から子どもたちのうたごえが聞こえてきた。
「ささの葉、 さらさら、 のきばにゆれる……」
けいこはそっと涙をぬぐった。きっと、大丈夫。たなばたさまは見ていてくれる。父も母も、また元気に笑ってくれるはずだ。
風がそっと笹を揺らした。短冊が、夏の夜空に向かって、静かに揺れていた。
昭和の初め、まだ戦後の余韻が残るその町に、田中家という一家が暮らしていた。家は木造の二階建てで、外壁は時間の経過と共に少しずつ色あせていた。町の中心から少し外れた場所に位置し、広い畑と小さな庭が家を取り囲んでいた。
父親の太一は、若いころから家族を支えるために農作業に励んでいた。手早く農具を扱い、朝から晩まで田畑を耕し、季節ごとの収穫を楽しみにしていた。母親の春子は、家庭を守る役割を一手に引き受け、子どもたちに厳しくも優しい愛情を注いでいた。日々の暮らしの中で、彼女の手がける料理や洗濯、掃除は、家族を支える大切な営みだった。
朝の光が薄く差し込むと、家の中はすぐに動き出す。父の太一は、軽く朝食をとりながら、外で待っている牛や馬の世話を始める。母の春子は、火をおこして炊事に取り掛かる。その間、子どもたち、長男の健太と、次男の修一、そして末っ子の小春は、それぞれの役割を果たすために忙しく動き回る。
「今日はお前たち、畑の手伝いを頼むぞ。」
太一が健太に声をかけると、健太は頷きながらも少し不満そうな顔を見せるが、結局は手を貸すことにする。彼は学校が終わると、毎日畑に出て働くことが多かった。まだ若いながらも、大人と同じように鍬を振り下ろし、汗を流していた。
春子はその日も、食事の準備と同時に、洗濯物を干し、家の隅々を掃除していた。台所では、野菜の皮をむきながら、さりげなく子どもたちに日々の心得を教えていた。
「修一、そんなに汚れた手で食卓に座ってはいけません。手を洗いなさい。」
修一はすぐに母親の言葉に従い、洗面所で手を洗う。母親の教えが、どこかで彼の心に深く刻まれていくのを感じる。

日が沈みかける頃、田中家の食卓は賑やかになる。春子が作った煮物や味噌汁、焼き魚が並び、家族全員が円卓に集まると、そこには温かい空気が流れる。
「今日も一日、お疲れさまでした。」と太一が言うと、子どもたちは元気よく返事をする。
「お父さん、明日はまた魚釣りに行けるかな?」健太が尋ねると、太一は少し考え込んでから答える。
「天気が良ければ、行けるかもしれないな。でも、まずは畑の仕事が終わってからだぞ。」
春子は微笑みながら、「魚釣りの後は、ちゃんとお風呂に入ってね。お父さん、汗だくで帰ってくるから」と言って、家族全員に注意を促す。
昭和の家庭は、こうして一日一日を地道に過ごしていた。日々の小さな営みの中に、愛情と絆が深まっていった。そして、戦後の日本は少しずつ復興し、田中家もその中で静かに、けれど力強く生きていた。
浅草六区の灯が水たまりに滲んで揺れる。春まだ浅き夜の風が、川面を渡り、ほつれたイカのように宙を舞う赤提灯の影を震わせる。路地裏を抜けると、ふと懐かしき三味線の音が、遠い記憶の襞をくすぐるように耳に触れた。
その音の主は、「梅のや」と看板を掲げた小さな店の奥座敷にあった。紅を差した女たちが幾人か、卓を囲み、長火鉢に手をかざしながら客を待っている。障子越しの明かりに浮かぶ影が、時折動き、女たちの笑い声が、通りを行く男どもを誘うかのごとく漏れ聞こえる。

私はふと足を止め、懐から煙草を取り出した。マッチを擦ると、一瞬、黄ばみかけた灯が指先を染め、淡い煙がゆらりと立つ。その煙の向こうに、ひとりの女が現れた。
「先生、お久しゅうございますね」
白粉の香に交じる酒の匂い。女はおもむろに袖を払うと、細い指先でタバコの火を摘まみ、そっと吹き消した。
「お前はまだここにいたのか」
「ええ、あたしにはここしかないんですもの」
女の声は、どこか夢のように遠かった。
昭和という時代のかげが、街の隅々に濃く滲み始めていることを、私はこの時ふと感じたのだった。
琥珀色のランプが淡く灯る店内。磨き上げられた木のテーブルの上には、湯気を立てる琥珀色のコーヒーと、ナプキンの上にそっと置かれたバタートーストが一枚。
壁際の席に並んで腰掛ける二人は、店内に流れる静かなジャズに耳を傾けながら、どこか懐かしげな笑みを浮かべていた。
「ねえ、あなたの初恋って、どんな人だったの?」
カップをそっと置き、彼女が訊ねる。白い陶器のふちに、うすべに色の唇の跡がかすかに残る。
彼は、ふっと微笑んで、スプーンでカップの中をひと混ぜした。コーヒーがわずかに波を打つ。
「初恋か……。小学校の頃、近所に住んでいた年うえのおねえさんだったよ。三つうえで、とても綺麗な人だったんだ。夏になると、よく一緒に川べりを歩いたりしてね。ある日、彼女が麦わら帽子を風に飛ばされて、僕が慌てて追いかけたことがあったな」
彼の視線は遠くへと向かう。まるで、その記憶の中に入り込んでしまったかのように。
「へえ、素敵ね。そのおねえさんとはどうなったの?」
彼女がいたずらっぽく微笑むと、彼は少し照れくさそうに肩をすくめた。
「結局、僕の気持ちなんて伝えることもなく、彼女は中学を卒業して、遠くの町へ引っ越してしまったよ。まあ、子どもだったしね。ただ、あの夏の日の眩しさだけは、今でもよく覚えてる」
彼の言葉を聞きながら、彼女はそっとカップを持ち上げた。コーヒーの香りが、胸の奥の思い出をくすぐる。
「あなたらしいわね。そういう淡い初恋、なんだか想像できるわ」
彼女は微笑み、カップのふちにそっと唇を寄せる。
「じゃあ、君の初恋は?」
彼が訊ねると、彼女は少し首をかしげた。店の奥では、店主がコーヒーを淹れる音が響いている。
「うーん、私の初恋ね……。小学校のとき、隣の席だったおとこのこ、かしら。毎日、ふざけて私の筆箱を勝手に開けたりしてね。でもある日、私が熱を出して学校を休んだら、次の日、その子がそっと、机の中に、おりがみのつるを入れてくれてたの」
「へえ、それは……かわいらしいね」
彼が微笑むと、彼女もふっと照れたように笑う。
「でもね、結局、その気持ちが何だったのか、自分でもよくわからなかったわ。ただ、今でも折り紙の鶴を見ると、ちょっとだけあのときの気持ちを思い出すの」
二人は顔を見合わせて、どちらともなく微笑み合った。
レコードの針が静かに音を刻む。窓の外では、昭和の街が夕暮れに包まれ、喫茶店のガラスに淡く映り込んでいる。
「初恋って、不思議なものだね」
「ええ。でも、こうして話せるのも悪くないわ」
二人の間に、琥珀色の時間がゆっくりと流れていった


