最近、メディアで「教育虐待」というワードに触れることが増えたように感じます。

 

教育虐待という言葉は、児童福祉の分野からでてきたというよりも、教育現場から、あるいは司法の分野から出てきたものかなと思います。

 

特に注目されるようになったのは、北九州で起きた大学生が父親を刺した事件の背景に、幼少期から厳しく叱責されながら大学に進学することを求められたことがきっかけのひとつかなと思います。

 

元九州大生の両親刺殺、弁護人が最高裁に上告…父親の「教育虐待」軽視訴えるも2審退ける:地域ニュース : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

お父さん、僕もう無理だよ 中学受験に潜む“教育虐待”の実態|NHK 教育サイト 子どもたちの「いま」|NHK NEWS WEB

 

実際、教育虐待という状況に至っている子どもたちはほかにもいる、と思っておられる教育現場の方もおいででしょうし、学歴至上主義ともいえる時代を生き抜いてきた、あるいはそこにしんどさがある親さん世代が、自分の思いや経験を子どもに託したり、期待をかけたりして、最初は愛情だったからかもしれない取り組みが、家庭という密室のなかで徐々に虐待ともいえるような状況になってしまった、というようなケースもあるように感じます。

 

教育虐待に限らず、虐待は子どもの心身、脳、成長に大きな影響を与えますし、子どもの人権を無視した行為でもあります。

 

一方で、親が虐待状況に至る背景にもさまざまな要因があることもわかってきています。

 

教育虐待に関して言えば、子どもの未来を心配したり、期待したり、不安に思ったり、そういう気持ち自体は自然なことですが、それをどの程度行動にするのか、どこまで求めていくのか、本人とちゃんとコミュニケーションをとって、本人の思いをくみ取れているのか、そういうことが大事なんだろうと思いますし、それができていないことが教育虐待につながっているんだろうと思います。

 

また、そういう家庭内の文化や風潮は、「教育」だけに限らず、子育てのあらゆる場面においてきている可能性があり、支援が必要なご家庭だともいえるかもしれません。

 

子育てを、親だけ、家庭だけで行わざるをえなくなった社会構造の今だからこそ、閉鎖的な空間ではなく、さまざまな人の力を借り、意見を取り入れ、地域の子どもを地域で見ていく、という形がとれるような、親子の関係性が煮詰まらないような、煮詰まったときにSOSが出せるような取り組みが必要なんだろうなと感じています。