最近、全国的に校則が見直される流れがありますが、校則に限らず、学校文化の中では、決められたこと、大人側が決めたことを子どもたちがちゃんと守ることをよしとするような指導が長く行われてきました。

 

しかし、時代の流れとともに、校則の見直しをはじめとして、学校の様々な場面で学生側の意見を取り入れたり、主体性をもって学校運営を行うことを促すような取り組みが始まってきたことを感じます。

 

「子どもは物事がわからない、大人が守り導くべき存在」ではなく、主体性を持った一人格であり、一部サポートは必要だとしても、意見をし、考え、主張し、行動できる存在であることを、やっと認めはじめた流れの一端なのかなと感じます。

 

これは、子どもの人権につながる基本的考えかたなんだろうと思います。

 

とはいえ、学校文化の中では、先生の指示に従う子、ルールや指導を守り、先生の言いつけを頭において、しっかり課題や学習に取り組む子、いわゆるまじめな子が評価されるところは相変わらず続いているようにも感じます。

 

まじめであることはいいことでしょうし、物事に真摯に取り組む姿勢も、やるべきことをしっかりやれることも、ルールや規範をまもれることも、とても大切な要素ですし、長所であることは間違いありません。

 

それを否定しているわけではなく、そのまじめさが、だれに向かっているのか、どこを見てそうなっているのか、だれの意図で、あるいは誰のためにそうなっているのか、

 

それが大人側の扱いやすさや、コントロールのしやすさや、指導のしやすさや、そういうことによる影響であればそれはちょっと違うかなと思うし、実際そういう子どもたちをたくさん見てきました。

そして、その性質に、とても苦しんでいる子どもたちにも出会ってきました。

 

文化や価値観は家庭や地域、所属するコミュニティの中で伝承され、引き継がれていきます。

もちろん大事なこともあるし、それ自体は自然なことです。

 

けれど、本来の自分とは異なるものに合わせるように頑張っていたり、親や先生たちなど周囲の大人の期待やニーズ、無意識の干渉にこたえるように、あるいは影響されるように一生懸命「まじめであること」「聞き分けがいいこと」「反抗しないこと」などを頑張っている子どもたちもいます。

 

子どもは本来わがままだったり、聞き分けが悪かったり、親とは別の感じ方考え方を持っていたり、大人の想像を超えるようなことを考え、行動する存在です。

 

そういう自由さをもっているのが子どもらしさでもあると思います。

 

校則見直しのようなひとつの流れに乗って、生来ルールや決まったこと、ルーティンが大事な「まじめな子」も、自由奔放でいうことを聞かない「自由な子」も、どちらもその子らしさとして見てもらえるような、受け入れられるような、そんな本当の意味での多様でインクルーシブな学校に代わっていけばいいなと期待します。