こんにちは、Keikoです。
Story of Life 私の人生
前回の記事はこちら 第99話:税務調査の恐怖
このブログも、お陰様で今回100話目を迎えました。
いつも応援いただき、ありがとうございます♪
前回は、バブル崩壊後に起きた恐怖の事件からリストラまでのお話をしました。
バブル崩壊後の不景気の中、1994年11月に、31歳で会社から放り出されてしまった私。
事務員さんとして6年半の間お世話になった会社でしたが、残念ながらリストラで退職することになってしまいました。
それでも思い返してみれば、良い先輩や仲間に恵まれて毎日がとても楽しかったし、業務も経理だけではなく、社会保険や労務など人事に関することや、秘書的なこと、庶務や総務的なことも、全部ひっくるめて経験させて貰えたことが、その後の自分の糧になっているので、感謝しかありません。
次の仕事は、翌年1995年10月にスタートすることになったのですが、今回はそれまでの「プー太郎時代」についてのお話ししようと思います。
話は数年遡ったところから。
以前、スポーツジャンキー時代でもお話ししましたが、20代の頃の私は、6年もの間、テニスにどハマりしていました。
テニススクールを「卒業」し、ある意味「武者修行」状態だった1991年頃から、合宿レッスン、個人レッスンの無い日は、スタミナやパワーアップを目指して、会社帰りに毎日スポーツクラブに行き、エアロビクスや、筋トレをするようになっていました。
ところが、だんだんスポーツクラブでのトレーニングでは「物足りない」と思うようになり、1993年の夏頃に「本格的なジム」を紹介してもらい、そちらにも通うことにしました。
当時、このジムは池袋と渋谷の2拠点ありましたが、私は家と会社の中間である池袋のジムにお世話になりました。
(余談ですが、ジムの会長さんの妹さんは、当時「ボディビル界の百恵ちゃん」として有名だった方で、私が通っていた頃は香港で女優さんとして活躍されていました。)
本格的なジムだから、コーチのみならず、大学生も会社員も「ボディビルダー」の選手がとても多く、また極真空手総本部がジムから近くて、空手の選手も多かったので、メンバーの皆さんは、本当に凄い身体つきをしており、練習も本当にストイックそのもの!
スポーツクラブのような軽い感じは全く無くて、練習中いつも「すごいな〜」と思って、遠目に眺めているだけでした。
私のトレーニング目的は「テニスのため」だったはずなのですが、ジムに入会して間もなく、前十字靭帯と半月板の損傷。結局トレーニングの目的は「リハビリ」に変更せざるを得なくなってしまいました。
「少しでも早く良くならなくちゃ」と思っていたから、相変わらず毎日ジムに通う日々が続いていて、日々リハビリメニューを粛々とこなしていたのですが…
そんなとある日のこと。私にとって、とんでもない「転機」が訪れたのでした。
トレーニング中、コーチから「ただ練習していてもつまらないでしょ?」と話し掛けられました。そして間髪おかずに「この際、目標を作りましょう!東京で、11月に第1回の新人戦が開催されることになったので、これに出場しましょう!」と言うではありませんか(驚)
驚いて開いた口が塞がらず、頭の中は真っ白状態で、声も出来ない…
周りにいたメンバーさん達から拍手喝采が起こり、もう「No」と言えない状態…
大会まで2か月もないのに、突然「ボディビル大会」出場することになってしまったのです。
今まで全く考えたこともない世界に、突然足を踏み入れることになってしまい、オロオロする日々が続きました。
減量に関しても、日焼けに関しても、ポージングに関しても、それこそ「ズブの素人」なので何の知識もなし。インターネットなんてない時代だから、もうコーチやメンバーさんに聴きまくるしかない。ハイレグのビキニ姿なんて、考えただけでも恥ずかしいのに、それを着る?そんな感じでしたが、皆さんに支えてもらいながらバタバタ2か月が過ぎていき、どうにかボディビル大会の初出場を果たしました。
結果は予選通過して4位となりましたが、訳が分からないうちに終わっちゃった感じ。
入賞してしまったお陰?で、ジムの中では完全に「選手」扱いとなってしまい、翌年の試合スケジュールを渡されてしまいました(泣)
2年目の1994年の夏は、まだ会社員だったし、選手として本腰入れる気があまり無くて、3つの大会に出場しましたが、1つだけ予選通過したものの、大した成績も残せず。
そして、この年の11月にリストラとなった訳です。
前置きがとても長くなりました。
ここからが、プー太郎時代のお話になります。
会社から解雇通告を受けた日も、いつも通りジムに行きました。
そこで「会社をクビになっちゃった!」というお話をしたのですが…
この日は会長さんがお見えになっていたのですが、突然「お前、明日から渋谷のジムで午前中コーチをしろ!」と言うではありませんか!
仕事の内容は、ジム内の掃除や自販機の補充、訪問者の対応、受付や会費の処理、会員さんの練習サポートやアドバイス。
業務は、月曜から金曜まで週5日、メインのコーチが来るまでの、朝10時から午後2時まで。
終わった後は、池袋のジムに戻って練習せよと。
ジムの月会費は免除で、毎日4時間分のアルバイト代と、渋谷までの交通費は支払ってくれるということでした。
大した金額にはならないとはいえ、本当に有難い申し出で、とても嬉しかったです。
とはいえ、生活が掛かっている訳で。
ちゃんと就活してフルタイムの仕事をしなくてはいけないから、会長さんに「次の仕事が決まるまでの間、よろしくお願いします!」とお返事させていただきました。
ということで、12月から「ジムのアルバイトコーチ」生活がスタートしました。
この頃、渋谷のジムに午前中に練習に来られていた常連メンバーさんの中に、今ではとても有名な俳優さん(当時はデビュー直前でした)もいらっしゃいました。とてもカッコ良かったですよ!
会長さんからは「次のシーズンは、ウチの職員なんだから、しっかり結果を出してくれ!」と発破をかけられ、選手生活3年目も確定…
流石に、これはかなりのプレッシャーとなりました。
練習に慣れと限界を感じていたので、ジムで練習されている女子プロボディビルダーの方を師匠とし、個人指導をお願いして、練習を見てもらうようになりました。
この師匠のお陰で、トレーニング方法が大幅に変わり、身体もかなり変わっていきました。
またコーチとしての知識も増えて、午前中の仕事にも大いに活かすことが出来るようになりました。
年が明けて1995年になりました。
この年は、本当に色々な事件がありました。
1月は阪神淡路大震災。
成人の日に絡む3連休でクラブの皆さんと一緒に燕にスキーに行き(このシーズンから、膝のブレースを着けてスキーをしています)、京都の仲間と合流して楽しく過ごしました。
彼女は、シュプール号(夜行電車)で京都に戻ることになっていたので、駅でバイバイして帰宅したのですが…
朝早くに震災が発生!
ニュースを見て驚いて、ご自宅に電話(当時はまだ携帯電話を持っていませんでした)しても全く繋がらず…
かなり心配したのですが、3日後にやっと連絡がついて一安心。
京都駅に朝5時に着き、お父さんと車で帰宅した途端に地震が来たそうです。
京都でも、家具が転倒したりして大変だったようですが、無事で良かった!
2月に入ると、本格的に減量がスタートしました。
隔週末に燕に行っていましたが、この頃からは「油」を使った料理を食べないようになり…
昼ごはんや夕飯で揚げ物が出ると、他の人にあげていましたっけ。
天丼の時は、タレが掛かったご飯と漬物だけということも多々ありました(笑)
余談ですが、選手の「減量のセオリー」みたいなものがあるのですが、私の場合かなりセオリー無視の状態だったので、コーチや師匠によく叱られました(汗)
が、一応栄養学校にも行ったし、調理師免許もあるからと、自分なりの計算をして減量食を作って食べていましたっけ。
一番呆れられたのは、アルコール。
通常、選手の皆さんは「アルコールを止めて、ご飯を食べる」のですが、私は「ご飯を減らして、ビールを飲む」を選択していたのです。
流石に試合1週間前だけは我慢しましたが(笑)、せめて1日缶ビール1本は飲みたいからと、その分に見合うご飯の量を減らしていました。
また、塩分が多いからという理由で「魚介類よりも肉類に」という、暗黙の了解みたいなものもあるのですが、そもそも肉よりも魚介類の方が好きだし、種類も豊富だから飽きない。「茹でて、ちゃんと塩抜きすれば良いじゃん」と思っていたので、これも完全に無視状態でした(爆)
思い返せば「少しでも美味しく食べたい」と、我ながらかなり工夫をして料理をしていたと思うのですが、今、冷静に考えてみらた「変な料理のオンパレード」だったなと思います。
いくら「減量できるから」と言っても、今同じような料理は口にしたくないですね。
そして3月。
春分の日が飛び石連休だったのですが、月曜はジムの仕事があるからということで、燕には土日で行って来ました。
翌日の月曜日。いつも通り渋谷のジムに向かっていたのですが、池袋で山手線に乗り換える時に、何だか様子がおかしいことに気が付きました。
駅の構内放送で「爆発物」とか何とか言っていたので、その時は「物騒だなぁ」程度にしか思っておらず、山手線は通常通り動いていたから、そのまま渋谷へ。
その日最初にいらっしゃったメンバーさんが「号外」を持ってきたことで、オウムのサリン事件を知ることになりました。
テレビのニュースを見ると、かなり大変なことになっていることが分かり、驚愕!
次々と詳細が報道されていきましたが、1つだけ「命拾いした」と思える事態が判明!
丸の内線でもサリン散布被害があり、本郷三丁目駅でストップした電車についての報道があったのですが、もし会社をクビになっていなかったら、私が毎日通勤で使っていた電車で、しかも散布された場所は、いつも乗っていた場所だったのです(驚)
死者はなかったものの、いつも満員の電車だから、負傷者がかなり出たようです。
この時本当に「ああ、私は運が良かった」と思えました。
スキーシーズンが終わり、4月から7月の大会までは、午前中のアルバイトコーチと、自分の練習に、減量食の料理をする日々が続き、6月からは日焼けサロンにも通いました。
師匠やコーチに呆れられながらも、とりあえず減量は上手くいきました。
7月の東京クラス別大会に出場し、結果は4位入賞。
やるだけやった感があり、悔いも何もなく、支えてくれた師匠、コーチや仲間に感謝の気持ちで感無量でした。
その後の試合も出場を検討してはいたのですが、翌週開催の試合は「東京の選手は参加出来ない」ということでエントリー出来なかったので、この年はこれで終わりと決めました。
結果として、この試合が私のボディビル選手として最後の試合となったので、ある意味有終の美を飾った感があります。
試合が終わった後も、渋谷のジムと池袋のジムでの練習は続けていましたが、プレッシャーから開放されて、気持ちはかなり楽になりました。
秋まで試合が続き、週末はほぼ毎週、ジム仲間の応援やサポートに駆けつけていました。
就活の方もそれなりに続けてはいたのですが、自分の試合が終わるまでは集中出来なかったので、この頃からは「ぼちぼち本腰を入れて考えなくちゃ」と思うようになっていました。
そして8月。
師匠がアメリカの試合に出場することになり、サポートとしてお供することになりました。
大会前後合わせて10日間、アメリカに滞在しましたが、国内線を何度も乗り換えて東海岸へ行き、初めて聞く土地で大会が開催。試合後はロスアンジェルスに数日滞在し帰国というスケジュール。アメリカ大陸横断は初めてだったこともあり、とても良い経験となりました。
試合では、プロのレベルの高さを目の当たりにし「やっぱり、私には到底無理だな」ということを改めて認識しましたっけ。
アメリカから帰国すると、家のポストにやたら私宛の手紙が来るようになりました。
手紙の中身を読むと、求人募集案内ばかり。
保険の外交員の募集が一番多かったのですが、そもそも何故急に手紙が来るようになったのか、全く分からず…
旦那さんに話してみたら、どうやら駅で貰ったチラシに「人材紹介」というものがあり、私の渡米中に勝手に登録していた事が判明!
家に直接電話を掛けてくる会社もあり、何社か面接に行きましたが、バブルが崩壊しているにも関わらず、かなり「バブリー」な会社が多く、勤務条件がイマイチ合わず、ご縁がない状態でした。
そして9月に入り、プー太郎生活もいよいよ10か月目に突入。
相変わらず渋谷と池袋のジム生活を続けてながら、就活をしていました。
秋分の日の前日の金曜日の夕方のこと。
家の電話が鳴りました。
電話に出ると相手は外資系企業のアシスタントの方で、経理の募集をしているので、是非面接に来てほしいとのことでした。
急に「面接に来い」と言われても、どんな会社なのか分からず、仕事内容もよく分からないから、まず詳細を教えて欲しいと聞いてみたのですが、言われたのは「仕事は経理、英語とMacが使えることが条件」との事で…
経理はともかく、英語は中学2年で英検3級に合格したものの、これまで英語を使った仕事はしたことがないし、Macが何だかその時は知らず。
これが「コンピューター」だという事は分かったけれど、私が使えるのはDOS。
どう考えても、今までの私の経験では無理だなと思い、その時は丁重にお断りしました。
すると週明け月曜日の夕方、今度は取締役の男性からお電話が!
その時も「外資の経験は無いし、Macは使ったことが無いし、英語で仕事が出来るとは思えない」と、何度もお話しして、多分30回くらい「無理です」と言ったのですが…
「うちは外資だけど日本の法人だから、まず日本の経理がちゃんと出来る人を探している。英語やMacはオマケだと思って、面接に来て欲しい」と言われてしまい…
とりあえず面接に伺うことになってしまいました(泣)
そして翌日の夕方、麹町にある事務所まで、面接に行きました。
面接担当は、電話をくれた日本人の取締役の方でした。
会社の概要から、何故今回の募集に至ったかの説明も、詳細にお話しして下さいました。
今まで、どんな仕事をしてきたかを中心に、1時間くらいお話したのですが「まず採用されることは無いな」と最初から思っていたので、あまり緊張することもなく、この時も「経験が無いので無理です」と30回位言った記憶が(笑)
最後に、採用の可否はアメリカの役員と相談して、数日中に回答するという事で、面接はなんとか無事に終了しました。
面接が終わってから、前の会社のお兄さん達と待ち合わせて、久しぶりに皆で居酒屋に繰り出し、楽しくキャッチアップをして家に帰りました。
そして面接翌日の夕方、取締役の方から何と10月1日付の採用というご連絡があり、腰を抜かしそうになりました!
この年は1日が日曜日だったので、スタートは2日の月曜からで、試用期間は12月31日までの3か月ということでした。
前の会社のお兄さん達に連絡して、就職が決まったことをお話しつつ「私、大丈夫かな?」と不安を口にしていたのですが「出来ないと正直に言ったのに採用したんだから、試用期間でダメならそれでもいいじゃん」と言われ、少しホッとしたことを覚えています。
そして翌日ジムに行き、就職が決まったことをお話しして、9月一杯でアルバイトコーチを卒業させてもらうことになりました。
ジムの仲間達が、練習後に近くの居酒屋さんでお祝いしてくれましたっけ。
こうして、私の丸10か月に渡るプー太郎生活は終わりを告げたのでした。
不安だらけの再出発でしたが、これが私のキャリアにおける第2のスタートになるとは、この時には想像もしていませんでした。
〜続く
今日はここまでです。
次回は、第101話:初めての外資系 に続きます。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪