〜慢心について〜
「慢心」それは…
「思い込み」の従姉妹。
「ビギナーズマインド」の天敵。
「無知」の同義。
「Not Knowing」の対極…
本日、長尾雅人訳 『改版 維摩経』を読んでいて、ふと脳裏を駆け巡ることあり。
『改版 維摩経』長尾雅人訳注 中央文庫
私の人生で一番傲慢だった頃を想っての自戒の言葉です。
この文章を、今は亡き、箏曲のお師匠様に捧げる。 (^◇^;)
「慢心」とは、未だ観えてない世界があることに気づかず、今の自分の見えている世界がすべてであると勘違いすることだろう。
例えば、未だ観えてないとは、川底の泥を浅く浚っただけで満足しているような…
四角い部屋を丸く掃除するような(笑)
さらに深く掘った人は、その先にあるものを黙して語らず。
(慢心の者にその先にあるものを伝える術を持っている人はいないだろう)
でも、慢心していない者なら、さらにその掘ってない先を感じるので、今に満足しないだろう。
「もうこれで到達した」という感覚、そして、「これで全部見えた」という安心こそが、未だ観えてないものがある証拠ではないのか。
即ちこれ「慢心」ということ。
(お経チックな表現(笑))
技術では師を追い越したと思っても、師の本当の深みを知らないだけだったんだろうなあ。
あの頃の自分、技術ではできていても、さらに深いところは言葉で全て説明するのは難しいことがある。でも、そここそが大切なところだということを、頭ではわかっていても、実際それがどのくらい深いものかはわからなかったですね。
今、コーチングやアドラー、昔読んだ本の再読などで、諸先輩方のお話をお聴きしてると、いかに自分の基準値が低かったかに気付かされます。
(ということは他にもいろんなところで同じことが…)
思い返せば、私の人生で一番傲慢だったのは、30代でした
今はその頃に比べると少しマシだと思いますが…(笑)(あ、これが慢心 😅)
維摩は言います。この世の病は、無知と執着。
今より さらに高い基準に気づいてない 無知 は恥ずかしい。
本当の無知って、知識がない無知というより、知識がまだ浅いことに気づいてない無知が問題なんですよね。
そういう無知が慢心の元なんだなあ。
(そう!「絶対無知」とでも名付けようか(笑))
だからって、別に遠慮するわけではありませんが(笑)
画像は、いろいろ考えさせられた現代語訳された維摩経の本と、ルドラクシャ(菩提樹の実のネックレス)
長尾雅人氏は、「菩提」の意味についても詳しく語られていて、すごく興味深かったです。
この話はまた今度。
