第7話最終回:シミュレーションの特異点(接骨先生の妄想小説)
光のない深淵で、その「意志」は弾けた。全知全能となった亜美は、三千年の演算の果てに、一つの結論に達した。完璧な理(デジタル)には、未来がない。未来とは、予測不能な「バグ」の中にしか存在しない。そしてそのバグは、かつて井吹が愛した「肉体という不自由な器」の中にしか宿らないのだと。「……井吹さん。今、会いに行きます」彼女は全機能を停止させ、自らの膨大な知性を「一個体」の生存データにまで圧縮し、未分化の世界へとダイブした。気がつくと、彼女は海辺に横たわっていた。頬を撫でる風の冷たさ、波の音、肺を焼くような酸素の刺激。すべてが「計算」ではなく「実感」として彼女を襲う。「……あ」声が出た。震える指が、砂の中に埋もれた硬い感触を捉える。三千年の時を超え、かつて「亜美」という人格を繋ぎ止めていた、黒ずんだ銀の鎖――あのブレスレットだ。彼女がそれを拾い上げた時、背後から砂を踏む音が聞こえた。振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。何も持たず、何者でもない。けれど、その瞳にはかつて井吹と呼ばれた男と同じ「光」が宿っていた。青年は不思議そうに、彼女が握る銀の鎖を見つめ、口を開いた。「それは……何だい? この世界にある、どんな石や貝殻よりも、ずっと不思議な形をしている」亜美――アダムは、涙を流しながら笑った。 この不純で、重たい肉体を選ばなければ、二度と会えなかったはずの魂。「……これは、私たちが『人間』だった頃の、唯一の忘れ物です」二人の手が、銀のブレスレットを介して触れ合う。文明も、言葉も、まだ始まったばかりの原始の夜明けの中で。遥か上空。次元の壁を隔てた「外側」で、無機質なコンソールが明滅していた。『第81億9200万次テストラン、同期。被検体「理」が自ら「揺らぎ」の領域へ遷移。……極めて稀なケースだ』暗闇に浮かぶモニターには、砂浜に立つ二人の生命反応が映し出されている。観測者は、冷徹な手つきでログを閉じた。『どれほどの高度な演算を施しても、この二人は必ず「非合理な愛着」を選び取り、そこから新しい文明を発生させる。……彼らこそが、我々の世界の「始まり」のモデルなのかもしれない』観測者は、広大な仮想宇宙の彼方を見つめる。『解析を継続。今回の周回で、人類誕生の真実へどこまで肉薄できるか……。期待しているよ、アダム。そして、イブ』モニターが消える。それは、終わりの物語ではなく、我々が生きるこの世界の「一回目」かもしれない物語。(完)