大垣まつり | 古典芸能好きでクリスチャンの立花寿圭六の雑記帳

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気付けば四半世紀生き、居はつくばだが仕事は今転職中の人間となり、オンラインで多種多様なコミュニケーションをしているそんな自分の日記

皆さんこんにちは。

大垣まつりの軕を今年もじっくり眺めることができた、助六です。

皆さんは大垣まつり行きましたか?

僕はちょうど1週間前より恵比須軕先触れについておりましたので、もう1週間経過したのかと思うと、早いなと思います。

今年の祭りは例年になく会う人が多かったのと、色んな方とお話していたため、写真をあまりにも撮影できませんでした。証拠に本楽では1枚も撮影しておりません(原因不明のスマホバッテリー切れの影響もありますが)。

なので先触れで撮影した写真は少しはあるので、それを紹介しようと思います。

先週水曜日に大垣入りをしたのですが、大垣駅改札にはこんなポスターがありましたね。隣には色んな場所に貼ってあるポスターがありました。

大垣駅内にあるアピオでもこんなポスターが簡易的に描かれた軕の絵はどうしても撮影せざるを得なかったですね。非常に苦笑気味で撮影しました。

先週よりずっと4日間着ていた、恵比須軕の浴衣。これを着て祭りに参加していました。

先週木曜日。先触れ出発直前の船町恵比須軕。この後、大垣市立西小学校と大垣市立興文小学校、そして大垣市の西のエリアを巡りました。その様子は各自掲示板でご覧ください。

大垣市立西小学校訪問 大垣市立興文小学校訪問

そして大垣市役所(大垣市役所_1 大垣市役所_2)を訪問し、八幡神社に参詣しました。

まだこの時は大垣まつり開催期間ではないため、屋台もなく、また人出も少ないので軕が目立つという状態です。でも、自分が関係している軕をこうやってここで撮影すること自体ないことなので、非常に良かったです。

屋台の場所にはこうやってガムテープで印がなされていました。お化け屋敷のみに関しては、この時もう既にできており、今でも営業しているのではという感じでした。写真に足が写っていますが、足袋に雪駄という歩きづらい格好で4日間笛を吹きながら歩いておりました。

その後大垣市保健センターの裏の興文地区センターで、昼食休憩。この日、大垣市は10ヶ月健診と重なっており、保健センターの方からは受付の時に軕がいては迷惑なのでそれまでにお済ませください、と言われ、カチンときた担務員長はすごく怒ってみえました。4年後も同じ場所で休憩が取れるように、他にも写真を撮影しましたのでここでもシェアしておきます。

後ろから。

その時同じ大垣市役所でも担当部署が異なると、情報共有が無く、結果的に軕の休憩場所として使用するという情報すら共有できなくなる。だから、こういう情報は特に関係する方々には前もって連絡を入れておいたほうが良いということを身をもって知りました。

その後午後は宮町やスイトピアセンター等を巡り、早い段階で軕蔵に戻りました。自分は船町に戻った後、お祝儀勘定をしてその日は終了しました。

 

翌日。

朝行くとこんな感じで恵比須軕が止まっていました。船町愛宕神社の鳥居をくぐる際、必ずお頭を外さないと通過できないのでお頭はもちろん付いていませんでした。

まだ時間が早かったので軕蔵の中で船町玉の井軕を発見。やっぱり良いですね。

恵比須のお頭が愛宕神社拝殿より運ばれてきました。

こんな感じで箱の中に入っています。

その後恵比須軕を出してお頭も付け、先触れ2日目がスタートしました。この日はゆりかご保育園で園児と交流をした後、軕を持っている十か町のうち七か町を巡り、祝儀と生演奏を行いました。

途中奥の細道結びの地記念館に立ち寄り、休憩をしました。

俵町つちや前で飾ってあるショーウィンドウの中の軕の紹介の諸々を見て思わず撮影。

その後昼食を中町で取り、船町に戻ってきてからは1日目と同じくお祝儀勘定をしました。

自分に与えられた任務は先触れの時は祝儀係や交通係でしたが、ユネスコ無形文化遺産への登録もあったので、お囃子生演奏をできるだけ多く巡行中に行っていました。

 

そしてまつり本番。試楽は、前日までの気象情報から裏返ることはなく、雨のスタートとなりました。10時より軕蔵から軕を曳き出し、その後奥の細道結びの地記念館まで行きました。ただ、取り決め上、午前中は待機ということだったので、お囃子は全くせず、軕の大きな音のみで向かいました。

奥の細道結びの地記念館では、玉の井軕踊り子の発表と、恵比須軕のお囃子発表を来館者に向けて行いました。写真は連獅子ですね。

※ここから先は文が中心です。

発表後は2輌の軕とも昼食休憩をとり、休憩後は恵比須軕は藤江町の神明神社(通称「元八幡」)へ、玉の井軕は船町町内渡しを行いました。

恵比須軕の元八幡への巡行経路上に、母の実家前を通ることになったため、急いで祖母に連絡。大垣まつりの帰省の時にはなかなか会えない祖母との短い時間ではありましたが、母の実家前でお囃子を軕と一緒に披露できたことは宝物ですね(例年来ているのかもしれませんが、先触れは今年、人生最初の経験、試楽ではその道を通過して元八幡に向かうことは一切なかったため)。

元八幡で奉芸を行い、久しぶりの元八幡でのご馳走を食べ、お神酒を呑み、再出発をしました。その時、太鼓を叩く方がいなかったので、自分が叩くことに。篠笛上がりの自分からすると、いつかあの軕の中で恵比須軕のお囃子を叩きたいと思っていた矢先の出来事だったので非常に嬉しかったです。特に祭りの関係者との話の中でも恵比須軕はそんなに頻繁に乗らないということだったので、興奮しました。元八幡出発後、新町付近で交代をしてまた篠笛を吹きながら駅前通りに出ました。すると、大垣郵便局前で玉の井軕が遅しと待ち構えており、非常に驚きました。その後一緒に駅前通りを北上したら、後ろから新町が神楽軕と菅原軕を引き連れてやって来ました。そして船町が後ろを付くことができ、気付けば提灯準備。つまり前から3輌目に恵比須軕という奇跡が起きたのはこういう理由からでした。

 

三輌軕の1つである、恵比須軕を回さなかった理由、それは足回りにありました。今年の軕の準備の際、発見したこのトラブルに応急処置を行い曳軕をしていた恵比須軕は、今年は回せなかったのです。

そして玉の井軕にもトラブルが。夜宮八幡神社前で停止し、踊りができなかったのはスピーカーの調子が悪く、中の音源は再生されているのだが、スピーカーから音が出ないというものだった。従って、何とか踊りはしたものの、踊り子には音源の音が聞こえるのだが、お客さんは何を踊っているのかわからないということが起こってしまった。2周目までにトラブルシューティングを行い、何とかスピーカーで聞こえるようになりました。

曳き別れ後、恵比須軕が随分前に行ってしまい、玉の井軕の交通整理をしていた自分は恵比須の浴衣で玉の井軕のお囃子を吹くことに。今年、理由は知らないが、玉の井軕の帰り軕(そういうお囃子があるのだが)の音源が軕の中になく、生でやらなくてはいけなかった。だけど、恵比須軕関係者は恵比須軕付近にいた関係で、僕1人しか篠笛がない。他の方は手提げ提灯やシグナルライトを持っていた。しばらくして、玉の井軕のスピーカーから道行き囃子が鳴り始めたので、僕はそれに合わせて篠笛を吹いた。その後船町の高橋付近で恵比須軕と合流し、その後は恵比須軕の帰り軕で軕蔵へ向かった。

 

本楽

翌日は試楽と違い、朝から晴れ。当初試楽に予定されていた、出発式を本楽に行い、八幡神社前奉芸に向け出発した。八幡神社前では当初の予定通り、最後尾に付いた。これは、本楽全行事が終わった後、恵比須軕を今年の船町から来年の伝馬町に引き渡す儀式、「お頭渡し」が古来と同じ順序で今も行われているからである。これに参加する伝馬町の松竹軕も船町の前に付いた。

その後、僕は八幡神社鳥居前に移動し、いつもの宮町関係者と共に各軕の奉芸を眺めた。前述の大垣市立西小学校の掲示板に掲載されているが、今年は去年と同じく東海テレビ放送の「祭人魂」の取材が大垣まつり、しかも船町に入っており、先触れ初日もカメラクルーがいたが、本楽もカメラがいた。その方々と共に奉芸を眺めていたと言っても言い過ぎではない。

そして、自分も奉芸を行った後、今年の順路(東回り)に従って巡行した。その初めの方で既に昼を過ぎようとしていたためお囃子の子供たちは皆昼食休憩に行ってしまった。しかも大垣駅前という人がごった返した場所の通過より前に子供たちが行ってしまったため、誰か太鼓を叩かなければということになり、僕が名乗りを上げた。午前中に駅前通りの移動の際、僕を見たかった方は残念ながら軕の中で太鼓を叩いていたため、話すらできなかったが、試楽より長い距離太鼓を叩くことができて、本人は幸せでした。その後、岐阜町付近で太鼓を交代し、あとは、笛を専ら吹きつつ巡行しました。

昼食休憩は中町で、45分未満。非常に大変でしたが自分は30分程度で切り上げ、軕を見に本町通りへ。宮町の関係者と魚屋町鯰軕の前でお話をし、午後の部がスタートしました。

目立ったトラブルは船町の軕には起こっていなかった。その後、駅前通り到着後、恵比須軕と玉の井軕を横並びにし、記念撮影(この撮影も本来は試楽で行うのが通例)。

(母撮影。)

そして、自分は普段本楽も早々と祝儀勘定に行ってしまうため、あまり参加したことのない大垣まつり行列に参加。僕は非常に嬉しかったですね。

そして、夜宮。相生軕にアクシデントが起きたが、これも恵比須軕と似た足回りのトラブルだった。恵比須軕は試楽と同じく、回さなかった。

そして2周目。前の松竹軕が真っ直ぐ行ってしまったため、予定が変わった。普段なら脇に寄せて止まるはずが、そのまま通過したのである。そのおかげで松竹軕以後は3周目が存在し、2周目の玉の井軕の後ろに3周目の松竹軕という芸軕2輌が縦に並ぶ珍しいことが起きた。

その後、恵比須軕お頭渡しが行われ、道行きである、松づくし(今年笛歌の歌詞が復元、松竹軕で総踊りしていた同名の端唄をもとにした)・花づくし(これは元より歌詞がある)・車返し(去年のお頭渡しの時におぼろげながら復元したものの、どうしても不確実だったため、今年の祭りまでの間に譜面を完成。船町では大人を中心に復曲させたものを練習した)の3曲の奉芸を行いました。その後、恵比須軕のお頭を外し、拝殿内に安置。神事を行い、今年の当番町船町が謡曲「高砂」を謡い、船町担務員長がお頭を持って

「確かに御渡し申し候。」

伝馬町担務員長がお頭を受け取り

「確かに御受け取り申し候。」

と言った。この瞬間、当番町が伝馬町に渡ったということである。

その後、伝馬町が謡曲「烏帽子折」を謡い手締め(シャンシャンシャン・オ・シャシャシャノシャン、というリズム)を行い、伝馬町が船町の労をねぎらい、また船町が伝馬町に激励する。この瞬間、両町の緊張が解かれる。

以上がお頭渡しの段取り(船町の関与する部分)である。伝馬町はお頭をもとの人形の首に安置し、お囃子を披露しただろうが、船町は早急に八幡神社を後にしなければならない。そこから先は伝馬町の行事だからである。

そして、恵比須軕の手古(曳き手)も玉の井軕の交通係になり、玉の井軕の軕蔵まで帰った。その際玉の井軕の帰り軕を恵比須軕のお囃子を吹いていた方が生演奏して帰った。

 

以上が今年の祭りである。色々と反省点が出たが、今度のブログで掲載しようと思う。何と言っても、今度の週末、後宴があり、またその時に軕の後片付けがある。もちろんそこに僕の姿はない。だけど、これ以上書きたくない。だから次回以降に後回し。

ではまた次回のブログで。