「そこの君。誰だっけ?えーと、幸太だっけ。」


名字ではなく、名前で呼び捨てにするところとか、妙になれなれしいところも生徒が竹林に親近感を抱く一部でもある。


 「この前、竹林先生は、先日の3年生だけのゼミの時に、『4年生になるまでに卒業論文のテーマを決めるように』と言われましたが、ということは、ここにいらっしゃる4年生の方々は、皆さん、ご自身の卒論のテーマがすでに決まっているということですよね。とりあえず、今回のゼミのテーマが決まっていないのなら、皆さんの論文テーマや内容について教示していただけないでしょうか。我々3年生にとっては、自分らの卒論のテーマを決めるのに非常に参考になると思うので、是非、お願いしたいのですが。」真剣な面持ちで幸太が発言した。

 

 榊原幸太は、小さいころからまじめな性格で、クラスに一人はいるような秀才であった。そのため、卒論も優等生としての論文を書こうとしていたのであろう。しかし、こんな優等生(保守)的な姿勢でいることで、中々、応用力が身につかず、そのためか、昔からリーダー的存在にはなれないタイプでもあった。


 

 そんな幸太に向って、竹林は、「今はそんな他人の論文テーマを聞くような時間じゃないし、そんな他人のテーマなんて聞いてどうすんの?他人の論文テーマを参考にするのは意味のあることだと思うけど、ゼミの時間を割くまでもないよね。今すべきことが何なのかを考えて、もっと、その場その場で本質的な発言をするように心掛けなさい。」と戒めるように言った。


 続けて、皆に向かって「私のゼミは、実践的な経営学や会計学を研究・議論する場所です。この点は、私のゼミに参加する際に軽く説明しているので、みんな知っていると思いますが、では、この『実践的』ということが、一体、何を意味するのか、考えてみてください。きっと、皆さん、違う答えになると思いますが、どんな答えであろうと、一つだけはずしてはいけないポイントがあります。それは、物事の本質を知るということです。この本質というのは、事実とか実態とか様々な言葉に置き換わることもあります。この本質や実質を認識することで、様々な理論や理屈に説得力を持たせることができます。」

 この竹林の話が、皆の表情を一変させた。竹林がその場の空気を変えたのが、皆、分かったのであろう。


 さらに話は続き、「逆に様々な経験や知識、研究結果を踏まえて成立している経営学の理論は、ある意味、説得力があると言えます。それに従って行動することである程度正しい方向に進めると思います。しかし、その理論が完全に当てはまる場合は非常に少ないです。その不完全な部分を補うものこそが、その理論を実践しようとする人の応用力であり、最も必要となるものが、そこで起きている様々な事象の実態や事実を正確に捉える能力になります。これを捉えられないと、その後の全てが間違った方向に行ってしまいます。まあ、この事実を認識する能力を身につけることが結構難しいんですがね。このゼミに身を置く限り、この点だけは必ず覚えておいてください。」



 竹林先生の言葉を聞きながらゼミ生の顔つきは完全に真剣モードになっていた。幸太にしても、非常に感心した面持ちで、「うんうん」とうなずきながら話を聞いていた。本当は、自分の応用力のなさが取り上げられていることに気付くべきなんでしょうが。。。。


 一方、藍にとっては、耳にタコができるくらい聞かされており、少しうんざり気味だったようで、このすこし緊張感のある場の空気をわざと壊そうとしているのか、「そんな説教じみた話なんかいいですから、早く本題に入りましょうよ。榊原君の要望くらい聞いてあげてもいいじゃないですか?大した話でもないし。」と、そんな適当な発言で、その場の空気が、少し和らいだようであった。



 「ん?要望って何だっけ?あっ、4年生の卒論テーマね。うーん。じゃあ、3年生は、時間のある時にでも4年生から聞いておくということでいいんじゃないの。」と、本当にどうでもいいといった感じの竹林の受け応えだったが、思いついたように、突然、「そうだ、良いテーマ思いついた。」ようやく本題である今回のゼミのテーマが決まったようである。




(続く)








 ガチャッ。

 


 「おはよう。」少し小さめで教室に少しこもり気味の声が学生たちの耳に入ってきた。



 「おはようございまぁす。」朝から元気な女の子の声が響くと、それにつられるかのように数人の学生の挨拶の声が教室にこだました。


「竹林先生、遅いですよ。今日は、後輩たちとの初めての合同ゼミなんですからね。何をするのかテーマも聞いてないし、結構、期待して朝早くから先生を待ってたんですよ。」竹林をからかい半分でせっついているのは、さっき、一番に挨拶をした相良藍であった。しかも、朝早いといっても、今日のゼミは朝の9時30分からで、学生のみんなも5分前に集まったぐらいである。


藍は、大学4年生になったばかりで、竹林のゼミ生になって1年間が過ぎていた。藍にとっては、竹林とはこの一年で色々議論を重ねた間柄であり、竹林の人柄が非常に気に入っていた。そのためか、お互い距離を置かない議論ができていたが、少し小馬鹿にしているのも事実であり、その一方で藍が竹林を非常に尊敬しているのも事実である。


竹林ゼミは、通常、3年生と4年生は、別々に行われ、1カ月に1度は合同でゼミを行うことになっている。しかし、藍が4年生になってから1カ月が過ぎようとしていたが、一向にこの合同ゼミが行われる気配がなかったのか、藍が竹林に合同ゼミを行うようにお願いしたことで、今回の合同ゼミが行われるに至った。そのためか、藍もテンションが普段より少し高めになっていた。


後輩も1ヵ月前にゼミに入ってきたが、竹林の無精な性格から、中々、4年生と3年生の顔合わせをしてくれなかったため、3年生も若干ストレスを感じていた。4年生も就職活動やら何やらで、結構忙しく、4年生と3年生の全員がゼミに集まることは難しい。

 


3年生からすれば、1年後の自分を考えると、この1年、何をすればいいのかを早く知っておきたいと考えているのであって、焦りも見える。藍も1年前の自分の経験から、3年生の立場も考え、竹林に早く3年生と合同のゼミをやってほしいとせがんでいたのである。



「そんなに遅くないだろう。今、9時・・・・。あっ、腕時計忘れた。」自分の左手首を見ながら、竹林がしゃべり出したらすぐに、藍が、「そんな腕時計はいいから、早くゼミを始めましょうよ。っていうか、ポケットとかに入ってるんじゃないですか?時計。よく外したりしてポケットに入れてるじゃないですか。」



 そんなわけないという顔をしながら、竹林がポケットに手を突っ込んだのと同時に、「あっ、あった。」という声がした。すかさず、藍は「まったく。いつもそんなんだから結婚できないんですよ。」と、笑顔であきれた雰囲気を出しながらからかっている。


 竹林もいつものことという感じで、藍の発言に対しては、軽く無視?して、席に座り、「はい、では、本日は、合同ゼミということで、これから何をテーマにしていきましょうか?」



 「うそ、決まってないの?」藍は、目を丸くして驚いた様子を見せた。

 

 「しょうがないじゃん。急に合同ゼミすることになったんだから。」と不満そうについつい声に出してしまうところが、竹林の幼い部分でもあり、生徒との間の距離を縮めている部分でもある。こんなところが、みんなに好かれている要因の一つともなっているのだが、本人は、そんなことを感じているわけでもなく、「テーマを考えていないわけじゃなくて、みんなの希望もあるかと思って、みんなに聞いてるんです。藍君、1年も一緒にいて、僕の行動パターンぐらい読んでよ。で、ところで何かテーマある人?」


「もうっ」と言いながら、こんなやり取りにも藍は満足げでもあった。


 その傍らで手をあげて、発言したそうにしている人物がいた。3年生の榊原幸太である。幸太は、まじめで素直なタイプであり、このゼミに入った理由も、就職のためとか、とりあえずとかで決めたわけではなく、もっと経営のことを知って、色々な企業の役に立つ人間になりたいという気持ちが強かったからである。


(続く)

 「ホーホケキョ、ホーホケキョ」

 


 梅の花が見事に咲き誇っている晴れた太宰府天満宮で、京介は、強烈な梅の香りに自分の身を投じ、天を仰ぎながら目をつむっていた。大きく息を吸い深呼吸しているその姿は、これから向かいあわなければならない現実に対する気持ちの整理をしているように見える。


天を仰いで1分半ぐらい経っただろうか、京介は、頭を元に戻した後、歯を食いしばって、すぐに胸を張って前を向いて歩きだした。

 

 

 境内を出ると、京介を出迎えていたのは、幸太だった。「どうだい?少しは気分が楽になったか?これから東京に戻ったら、みすず銀行と戦わなければならないという厳しい現実が待っているからな。その顔なら大丈夫だと思うが、気合い入れて帰るぞ。」


 「あぁ、任せておけ。しかし、梅の花の香りは凄いな。頭のもやもやが一気に吹き飛ぶ。1年の内、1カ月くらいしかこの梅の強烈な香りを嗅ぐことができないが、タイミングが良かった。おかげで気合いを入れ直すことができた。俺は絶対に死なん。絶対に銀行なんかに会社を潰させんぞ。」


 京介は、生まれた月が2月という理由で、桜よりも梅が大好きだった。確かに、多くの梅が一気に咲き誇ると、その香りのインパクトは凄く、この香りに感動する人が多いのも分かる。


 「お前は、昔から梅の花の香りが大好きだったもんな。俺も初めてここに来た時は、強烈な香りに驚いたのを覚えているよ。あれから10年が経つけど、今が一番苦しいな。この状況を絶対に乗り切るぞ。これを乗り切れれば、これから何があってもやっていける気がするからな。」


 「そうだな、絶対に乗り切るぞ。まだまだ、やらなければならないことばかりだし、負けられないしな。」


 2人は、そんなやり取りをした後、タクシーに乗り込み、一言も言葉を交わすことなく福岡空港に到着し、出発ゲートをくぐった。



 幸太は飛行機に乗り込む前に、搭乗口で「じゃあ、明日の10時に内幸町のみすず銀行本店の受付ロビーで。そこから戦闘開始だ。」


京介は、「おう!」と応えて、静かに飛行機に乗り込んでいった。その後ろ姿を見ながら幸太は、昔の事を思い出していた。