「組織論や戦略論でのアプローチ以外に何があるんだ?そういえば、会社法で営業譲渡という言葉が、事業譲渡という言葉に変わったんだっけ。」と相良藍が考えていると、教室の外の廊下から誰かが走ってくる音がした。その足音は、藍たちの教室の前でとまり、同時にドアが開いた。


 「すみませ~ん。遅れちゃいましたぁ。へへへ。」と汗を額に浮かべながら、教室に入ってきたのは、藍の同級生である清水葉月であった。


 「葉月、遅い。」藍が、少しきつい言い方で、葉月を叱ったが、当の葉月は、「ごめんなさい。」と笑いながら謝っている。葉月は、天真爛漫な女の子で、物事を直感的に考えるタイプの女の子である。世話好きな藍とは。性格も趣味も思考回路も正反対であったが、高校生時代からの親友でもあり、藍によくなついていた。


 「まあ、まあ、まあ。とりあえず、空いている席に座りなさい。」と本来は自分が叱らなければならない立場である竹林は、藍が先に叱ってしまったものだから仲裁に回るしかない。しかし、藍は、竹林が叱る前に自分が叱ることで、竹林が生徒を叱れなくしているのである。藍のこういった世話好きな所が、葉月がなつく理由にもなっている。

「とりあえず、藍君、葉月君に議論していた内容を簡単に説明して。」

「えっ、私がですか?」と、藍は、面倒くさがりながらも、今議論していた内容を葉月に簡単に説明した。


「今、議論していた内容はね、『事業』という大テーマについて、具体的な研究テーマを何にするか皆で探していたところなんだ。」

「へ~ぇ。そうなんですか。何か、漠然としてますね。『事業』なんて考えても何にも分からない気がするんですけど。いっそのこと、事業をやってみたらいいんじゃないですか?」と、葉月は冗談のつもりで言ったのに対して、京介が、「それいいですね。『事業』やっちゃいましょうよ。」


 「何を言ってるのよ。あくまでゼミの研究のテーマなんだから、いくら何でもそれはできないでしょ。」と藍が反応したが、それが終わると同時に、さっきの葉月の言葉について少し考え込んでいた竹林が「じゃあ、それでいこうか。」


「えっ。いいんですか?そんな『事業』をやるには色々と準備しなきゃいけないし、法的な手続もしなければならないし、時間がありませんよ。」と、藍が言うと、竹林は、


 

 「もちろん、本当に『事業』をするということは、現実的ではありませんよね。私が言いたいのは、ケーススタディです。『事業』を進める上で、単なる手続について学ぶことは、効率的ではないので、それらを省略したケーススタディにしましょう。」

 「なるほど。では、ケーススタディするには、まず、どんな事業を行うかを想定しなければならないですよね。」切り替えの早さは、藍のいいところでもある。


 

 「そうですね。では、業種から考えましょうか?皆さん、業種ってどんなものがあるかわかりますか?」

 「うーん。小売業とか製造業とかってことですよね?」幸太が何となく発言した。


 「その通りなんだけど、どんな業種があるか網羅的に並べてみてください。」と竹林が言うと、


 

 「そんなの日経の株価欄やこの四季報見れば、一目寮前ですよ。」京介が、おもむろに四季報を取り出しながら言った。

それを見て、竹林は、「それで大丈夫でしょう。では、その中から自分らの興味のある業種を選択し、とりあえず、皆さんで業種を絞り込んでください。では、皆さん、15分で考えてみてください。当然、相談しても構いませんので。」と言うと、「はい。」と藍は返事をすると同時に、すぐに、仕切り出した。


「竹林先生は、何を選んでもいいと言っているけど、それには、きっと理由が必要なはず。しっかりした理由のもとで業種を選ばないと・・・。」と、藍が頭の中で考えていると、そばにいた葉月が、「アパレルがいいな。しかも、お洒落なブランドがあるお店がいいな。」

 「俺は、IT関連がいいな。」京介も葉月にかぶせながら言ってきた。

ゼミ生らは自分の希望する業種を「私は、サービス業。」、「俺は商社。」とか、次から次へと、言いたい放題になった。それもそのはずで、皆は、大学の3年生や4年生であり、すでに就職の内定が決まっていたり、これから就職活動をしたりする学生たちであるため、自分たちの将来を委ねる会社が、最初に頭に浮かび、それを口に出しているにすぎない。


それに気づいたのか気付いていないのか、「どうせなら、楽しくできる会社にしようよ。イメージできないことしても、つまんな~い。ていうか、皆、自分が勤めたい会社とか、就職が決まっている会社の業種を言ってるだけじゃん。」と、葉月が適当な感じでコメントしただけだったにもかかわらず、意外に説得力があり、皆も賛成した。 


「それもそうだな。内定が出ている会社のことは、嫌でもこれから知っていくことだし、他の知識を身につけておいた方がいいかも。」4年生の男子生徒が言うと、幸太も「今は、どんな業種の会社に勤めたらいいのか分からないのに、それを今から決めて、シミュレーションしても、今後、就職する会社の選択肢が狭まりそうで、何か嫌だし、葉月さんの言うように楽しくケーススタディできる会社にしようよ。」皆もうなずいていた。藍も、当然、それを聞いて納得した顔はしているのだが、さっきから頭にある業種を選ぶときの「理由」を考えていた。


「一つだけ、いいかな。楽しくやれる業種を選ぶことには賛成なんだけど、なぜその業種にするのかの理由だけは明確にしたいと思うのね。」相良藍が発言すると、傍らで事務的なことなのか、何かの作業をしていた竹林の手が止まり、藍の言葉に耳を傾けはじめた。


「理由か・・・・。」京介が首をかしげている一方で、葉月は、アパレル業のスタディをしたくて仕方がないといった感じで、既に妄想の世界に入り込んだのか、藍の発言が聞こえていなかった。


 「理由といっても難しく考える必要はないと思うの。だけど、なぜこの業種の会社にしたのかを考えたいの。」藍が言うと、京介が、「まず、さっき葉月が言ったようにイメージのできる業種ってどういう業種があるのか考えたらどうですか?これも一つの理由だと思いますけど。」




「そうね。最初から考えてばかりで、結論が出ないことの方が良くないし、とりあえず、そこから考えましょうか。」

こんなやり取りの中、特に反対する者もおらず、自然と、藍、京介、葉月の言葉に従う流れとなっていった。


(続く)
















京介は話出した。


「先ほど、先生が『事業とは』を深く学ぶことがないと言われましたが、特に経営学を学んでいない方達も『事業』という言葉を普通に使っているように思えます。私たちも当然のように使ってますし。つまり、経営学の範囲に限定せずに『事業』を検討するという理解でよろしいのでしょうか?」


藍も興味津々といった感じで、京介の話に耳を傾けた。

 

 

 「というと?」竹林が少し目を細くした。それが言い終わるのと同時くらいに、続けて京介が話し出した。



「経営学という視点に縛られないのであれば、例えば、有価証券報告書を見てみると、『事業の内容』、『事業の状況』、『事業等のリスク』など、『事業』という言葉を使った項目が目に付きます。経営学では、この有価証券報告書という言葉はほとんど出てきませんが、会計学では、この有価証券報告書という単語は、頻繁に耳にしたり、目にしたりします。この会計学の範囲においても『事業』という言葉は良く使われているにもかかわらず、やはり会計学でも『事業とは』を議論することはないですよね。」


京介はPCに目を向けながらさらに続けた。


「また、インターネットで『事業』という言葉を検索すると、色々なケースで頻繁に使用されているように見受けられます。これは日常で、色々な人がこの『事業』という言葉を多用していることを意味している、もっと言うと、『事業』と言う言葉は、社会の一部となっているくらいの言葉なのではないでしょうか。これが先ほど、先生が言われていた実務色が強いという点につながっていると思うのですが。」



細くなっていた竹林の目が、笑みを含んだ目になった。


「グッドポイントだね。」竹林は京介に一言コメントしたかと思うと、顔を皆に向けて話し出した。


「まず、有価証券報告書についてですが、これは、世の中の投資家に対して、企業自らが自社の財政状態や経営成績などをアピールするための活動報告書であり、企業実態の情報が凝縮されています。

最近では、時代の潮流に従って、記載のルールが変化しています。最近の有価証券報告書では、『事業等のリスク』や『財政状態及び経営成績の分析』の部分で、企業側の経営方針や今後の対応についての将来的な目線を記載した部分も記載されるようになりました。

しかし、不明確な情報や未確定な情報は、投資家の意思決定を誤らせる可能性もあるため、不用意に記載されません。有価証券報告書を見てもらえばわかりますが、その企業の過去(確定した)数値や事実に関する記載がほとんどです。つまり、企業の将来について、多くを語ることが難しい報告書と言えるでしょう。その部分を補うのが、上場企業を始め、企業が行うIR活動ということになります。

そのため、将来的なコメントが限られている有価証券報告書から企業の将来像を読むことは難しいのですが、IRなどからの色々な情報と組み合わせながら、その内容の本意を読み取ることになります。とは言っても、一般的には、読み取ることが非常に難しいものになっています。企業も簡単には読み取らせないですしね。

このように有価証券報告書は、内容に色々と制限が設けられていますが、会計学で学ぶべきポイントが全て盛り込まれていて、会計学のエッセンスが詰まった会計学の集大成といっても過言ではありません。さらに、その表面的な部分だけではなく、作成する企業側の意図まで読み取れるようになれば、会計学の枠を超えた読み方を身につけていると言えます。

少し長くなりましたが、『事業』について検討するには、この有価証券報告書を利用するのもいいかもしれませんね。」


 「あっ、そうだ。もう一つあったね。京介が言ったように、『事業』という言葉は、当然のように皆さんが使っていますね。色々な言葉と組み合わされ、様々な使われ方がされていますね。

 インターネットで検索すると、色々と結果が出てきます。あまり疑問もなく、経営学的にも実務的にも普通に浸透されている言葉になりますね。学術的にはとりわけフォーカスされることはないんだけど、これだけ多用される『事業』について少しこだわってみようというのが、今回の意図になります。

 といっても定義などを考えるのでは、あまりにもつまらないので、実務に沿った形でケーススタディをしながら、皆さんそれぞれの定義を探求していくということで具体的にテーマを考えてください。

 しかし、事業部制組織とか事業戦略とか、経営組織論や経営戦略論的なアプローチは避けましょう。うちの学部では、経営組織論や経営戦略論は、それぞれ必須科目となっているので、皆さんもその講義を受講されると思いますから、それらについては、そちらの講義に任せることにして、他の観点からケーススタディしたいですね。

 何かありませんか?」



(続く)


竹林は、大学の教官らしくゼミ生に話し出した。


「今年の合同ゼミのテーマを思いつきました。『事業』にしましょう。経済学や統計学は研究的な要素が強い学問であると思いますが、それに対して、経営学や会計学は、実務的な要素が強い学問です。企業を継続していくために必要な基礎的な学問が、経営学や会計学だとも言えます。

一部のビジネスセンスを有する天才を除いて、ビジネスを展開する世の中の社長やマネジメントに携わる方達にとっては、この経営学や会計学をきちんと習得することは、避けては通れない道になりますが、それを学んだからと言って、必ず成功するとは限らないし、そこからケース・バイ・ケースで応用力が必要になってきます。」


「私は、『事業』という言葉は実務色が非常に強い言葉だと思っています。経営学を学ぶと、事業部制組織とか、事業戦略とか事業部長とかいう言葉をよく見たり、聞いたりしますが、『事業とは』みたいなことを深く学ぶことはほとんどなく、当たり前のように『事業』という言葉を使っています。『事業』ということを深く考えたときに何が見えてくるのか、この合同ゼミで確かめてみたいと思います。ということで、皆さん、『事業』を本質的に理解することを目的に、この合同ゼミで行うことを検討しましょう。」



竹林の話がひと段落すると、「合同ゼミのテーマ、ありがとうございます。個人的には非常に面白いと思います。でも、話は変わりますが、さっきの榊原君の要望くらい、私たち4年生のほうで対応しますけど、そういったことも、あんまり面倒くさがらないで対応してあげてくださいね。」藍は、一年前に自分たちも同じような対応をされていた事を思い出していた。

 「もう、わかったよ。今後は気をつけるよ。」という竹林のぼやきに、真剣な面持ちになっていた他の学生から笑みがこぼれた。

 「うーん、面倒っていうことではないんだけどなぁ・・・・。」と、竹林は、藍の面倒見の良さを頭で覚えながら、苦笑いをしていた。

 しかし、それに構っている時間はないといった感じで、すぐに普段の面持ちになり、「この『事業』を検討するために何をすればいいか、何か良いアイデアを思いついた人いないですか?」と質問をすると、藍や幸太を含め、ゼミ生が難しい顔で悩みだした。


「竹林先生は、いったいどんなテーマを求めているんだろう?きっと、この人のことだから、何でもいいっていうことでもないはずだし・・・・・。」藍は、頭をひねりだした。



この『頭をひねる』という行為は、竹林が学生たちに要求する最も重要な行為の一つであると考えており、日ごろから、良く声に出して、学生たちの頭や身体に刷り込ませようとしていることでもあった。



藍も、竹林から常日頃から言われ続けていることもあり、この『頭をひねる』という行為が非常に重要な行為であることをよく理解しており、徐々に癖になってきていた。




少しの間、皆が悩んでいると、真面目な幸太が、痺れをきらし、「質問した。今回のテーマは、結局、『事業』という言葉の定義を考えるという解釈でいいのでしょうか?


これに対し、竹林は、「定義を考えるということに違いは無いけども、それであれば広辞苑やインターネットで調べれば、おざなりな回答がたくさん出てくるでしょう。自分なりの解答を見つけてほしいと考えています。とりあえず、そんな定義とか堅く考えなくていいですよ。でも、幸太のように、思いついたことをどんどん発言してください。他に何かないですか?」


「うーん、『事業』という言葉の定義がどうのということじゃないのか・・・・・。この言葉がどういった場合に使われるかを考えた方がいいのかな?」藍が、頭の中で考えていると、他のゼミ生が手を挙げた。幸太の隣でノートパソコンを開いていた葵京介だった。





(続く)