【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺6 中国的七堂伽藍 天王殿
若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。
旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。
写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。
何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・
他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。
■■ 京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺6 中国的七堂伽藍 天王殿
京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院「萬福寺」、山号は黄檗山は、1661年に、中国明朝時代の臨済宗を代表する僧である「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創されました。中国福建省にある黄檗山萬福寺の住職をしていましたが、日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝しました。当初「臨済宗黄檗派」などと称していましたが、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗(おうばくしゅう)と改称し、現在に至っています。
「禅宗」は、日本では、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。他の2つの禅宗と黄檗宗が大きく違う点として、中国的な特徴を色濃く残していることです。江戸初期から中頃にかけて、黄檗宗の大本山・黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の住職は、殆どが中国から渡来した僧侶でした。
萬福寺の建造物は、中国明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿のままを今日に伝える寺院は日本では他に例がありません。代表的禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊、額などが国の重要文化財に指定されています。
■ 隠元隆琦(いんげん りゅうき)
万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師
勅賜として真空大師、華光大師、
万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。
独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。
また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。
明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。
日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。
承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。
■ 伽藍
萬福寺の伽藍は左右対称に配置されており、全体は西側を向いて乱れなく建てられています。
一番西側にある「総門」をくぐり、右手に「放生池」を見ながら進むと、巨大な三間三戸の「三門」、そしてその奥には萬福寺の玄関にあたる「天王殿」があります。
天王殿の奥には「大雄宝殿」、さらに奥には「法堂」が一直線になるように建てられています。
萬福寺の伽藍は、そのすべてが屋根つきの回廊で結ばれており、雨天の際でも問題なく法式を執り行うことができるようになっています。回廊沿いにはそのほかにも、南側に鐘楼、伽藍堂、斎堂、東方丈が、北側には対称となる位置に鼓楼、祖師堂、禅堂、西方丈が、並んでいます。
これら萬福寺内の建物は、一般的な日本の寺院建築とは異なっています。宗祖隠元禅師が日本に渡ってきた中国の明時代末期頃の様式で造られています。建築材も南アジア、東南アジア原産のチーク材を使用しています。各所に見られる「卍くずし」と呼ばれるデザインや、円い形をした窓、伽藍の扉に施された桃の実の形をした「桃符」という飾り、アーチ状に造られた「黄檗天井」など、ほかの日本の寺院では見かけることのないような建築手法、デザインが用いられています。
また、三門から天王殿へと向かう参道を北側に折れたところには宗祖隠元禅師を祀る開山堂が建てられています。(【公式サイト】をもとに作成)
■ アクセス
JR黄檗駅から徒歩5分、京阪宇治線黄檗駅から徒歩8分
私は、JR黄檗駅下車し、改札正面辺りにある小径(わかりにくい)を入って行きました。
京阪の駅は、JRより西側(萬福寺の反対側)にありますので、JR踏切を横切ってから小径に入ります。こちらも入り口が解りにくいので、地元の人に聞かれるとよろしいでしょう。
同寺サイトのコンテンツは充実していて
以下の説明は、公式サイトを基に作成しました。
天王殿
天王殿(てんのうでん) (重要文化財)
萬福寺の玄関として天王殿が設けられています。
中国では一般的な建て方で、四天王と弥勒菩薩と韋駄天を同様に祀ります。×型の組子を入れた匂欄は、日本では特異なたすき匂欄で、中国で使用されているデザインです。
天王殿(重要文化財)は、寛文8年(1668年)建立された、一重入母屋造の建物です。寺の玄関としての堂宇で、本堂の手前にこのような堂が配されるのは中国式の伽藍配置で、日本では珍しい形です。
内部には弥勒菩薩の化身とされる布袋像が、目のつく位置に安置されています。この像は日本で著名な半跏思惟形の弥勒菩薩像とは全く異なり、太鼓腹の布袋像として表されているのが特徴です。
他に、堂内左右に四天王像、布袋像の背後に、本堂の本尊と対面するよう韋駄天像が安置されています。
これらの像は、范道生の作で、いずれも清風の様式で造られています。
方柱はチーク材で、道内に2本の円柱があり、黄檗の七不思議の一つと云われている造りです。
X型の組子状の勾欄は、日本では特異な襷勾欄(たすきこうらん)といい、中国・チベットで使用されているデザインなのです。
天王殿(てんのうでん) (重要文化財)
本堂の手前に立つ萬福寺の玄関、一重入母屋造の建物
四天王と弥勒菩薩と韋駄天が祀られています。
弥勒菩薩(布袋)座像
范道生作、寛文3年(1663年)造立の像高110.3cmの木像です。
布袋は、弥勒菩薩の化身と云われ、萬福寺では弥勒仏とされています。
広隆寺の弥勒菩薩のように、美形で、半跏像でないのが中国風といえます。
背面に背中合わせに韋駄天が配されています。
寛文3年11月末に隠元禅師の命を受けて、
この弥勒菩薩の作者・范道生が造立
寛文8年(1668年)の天王殿建立時に、
天王殿に移されたと考えられます。
韋駄天立像
木像、像高200.0cmで、伽藍守護神として、
天王殿の弥勒像の背面に安置されていて、
大雄宝殿と対面しています。
康熙43年(1704年)頃、清で造立されたものを請来したものです。
この像以前には別に、
天王殿に范道生作の韋駄天像が祀られていましたが、
現在は文華殿に蔵されています。
韋駄天(いだてん、塞建陀、私建陀、別表記:違駄天)
仏教において天部に属する神です。韋陀、韋天将軍とも言われます。
増長天の八将の一神で、四天王下の三十二将中の首位を占める天部の仏神です。特に伽藍を守る護法神とされ、中国の禅寺では四天王、布袋尊とともに山門や本堂前によく祀られます。日本の禅宗では、厨房や僧坊を守る護法神として祀られることが多いです。
また小児の病魔を除く神ともいわれます。密教の曼荼羅では、護世二十天の一尊として西方位に配されます。
大雄宝殿側から見た天王殿
扉が開いている部分から韋駄天を見ることができます。
すなわち韋駄天は、大雄宝殿を対面にして立っているのです。