■【きょうの人】 0813 ■ 大覚禅師(蘭溪道隆) 南宋から渡来した禅僧 大覚派の祖 ■ 斎藤 龍興 美濃国の戦国大名

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■ 大覚禅師(蘭溪道隆) 南宋から渡来した禅僧 大覚派の祖

 だいざく/らんけい どうりゅう
 嘉定6年(1213年)- 弘安元年7月24日(1278年8月13日)

 鎌倉時代中期の南宋・?州?陵県蘭渓邑(現在の重慶市?陵区藺市鎮)から渡来した禅僧で、諡は大覚禅師、俗姓は冉、名は?章、法諱は道隆、号は蘭渓です。

 大覚派の祖で、無明慧性の法嗣、建長寺の開山を行っています。

 13歳で出家し、無準師範・北?居簡に学んだ後、松源崇嶽の法嗣である無明慧性の法を嗣いでいますし、松源崇嶽の法嗣である無明慧性の法を嗣ぎました。


■ 斎藤 龍興 美濃国の戦国大名

 さいとう たつおき
 天文17年(1548年)-天正元年8月14日(1573年9月10日)

 戦国時代の美濃国の戦国大名、道三流斎藤家3代です。

 天文17年(1548年)、堂さんに刃を向けた斎藤義龍の庶子とも、生母が近江の方(近江局)ともいわれています。

 近江の方は浅井久政の養女で久政の父・浅井亮政の娘であるという説が有力です。義龍と道三の父子関係を肯定するのであれば、斎藤道三の実の孫に当たります。

 永禄4年(1561年)、父・義龍の死により14歳で美濃斎藤氏の家督を継ぎますが、家臣の信望を得ることができなかったようです。

 永禄4年の森部の戦いにおいては、戦いそのものには勝利したものの、重臣(斎藤六宿老)の日比野清実、長井衛安らを失いました。

 永禄5年(1562年)には、有力家臣であった郡上八幡城主の遠藤盛数が病没してしまいます。

 長島に亡命した龍興は、元亀元年(1570年)に始まる長島一向一揆に長井道利と共に参加し、信長に対する抵抗をしました。

 その後、三好三人衆と結託し、信長が擁立した室町幕府第15代将軍・足利義昭を攻め殺そうとしましたが、敗退してしまいました。

 縁戚関係にあったことから越前国の朝倉義景の下へ逃れて保護されたりしました。

 天正元年(1573年)に、義景が、浅井長政を支援し、信長と対決するために近江国北部に出陣した際に龍興も従軍しました。朝倉軍が織田軍に敗れ、達興も戦死しました。


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【 注 】

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