経営コンサルタント事務所
B・M・S・21代表 山本 修 先生
日本経営士協会 常務理事 関西支部長
■■ 言葉の教育の重要性を再考する
人は、幼児期に周りを真似ることを繰り返して言葉を身に付けるといわれる。人は言葉で考えて成長するから、思考は一種の言語活動であるとも言われる。
とすると、言葉の修得過程は心がつくられる過程と重なるといっても過言ではない。身に付けた言葉が心のあり方や思考回路を規定する。その意味で言葉は、心に形を与え、「心の容れ物」と言われる所以である。
■ 機能不全に陥った学校
「学級崩壊」と言う異様な事態が半ば常態化し、子供の学ぶ意欲の減退や学力低下も問題化している。文部科学省の教員養成制度の見直しも、教員の質の向上に期待してのことであろう。
しかし現在の状況は、教員の力量問題だけではないように思われる。従来の学校の教育のあり方が機能しにくい時代となったと思われることから、再考する必要があるのではないかと考えられる。
欧米モデルの近代的学校の開始が1872年(明治5年)。寺子屋の畳に代えて机と椅子を入れ、先生が黒板を背にして40~50人の子供を相手に教科書を片手に一斉授業で教える風景が、140年前に始まった。
義務教育が無償化された1900年ごろから、学校に行くのは当たり前になった。学校は、子供が閉じた村から外の世界に脱出できる立身出世の通路であり、子供は、新しい知識は学校から得ていた。
智を伝える媒体がメディアであるならば、学校こそが智を伝えるメディアであった。近代化の時代には学校は輝くメディアだったのである。
今や学校は「飽和状態」にあると見てよいであろう。高校進学率は100%に近付き、大学・短大進学率も50%台半ばを超えた。
一方、子供の周りには、テレビの他にもインターネットやケータイなど、子供を刺激する商業的なネット端末が溢れ、子供を取り巻く文化状況は一変した。子供達は、学校外に広がるこうした回路から新しい情報を取り込み、100年前とは別世界に生きている。
ところが学校は今も、先生が教科書で30~40人の子供達に一斉授業で教えている。この風景は100年前と変わらない。学校が社会の中で持つ意味は100年前とは大きく変わったが、学校の基本構造は変わっていない。
学校はかっての輝きを失い、商業的メディアに負けるはずである。近代化推進時には目覚ましく機能していた学校は、今の高度メディア社会では機能不全を起こしているのではないだろうか。
■ 言葉の教育の重要性
幼児期からテレビのバラエティー番組やゲーム等の商業メディアに浸ってきた子供の言葉は、教師の言葉と、同じ日本語でも同じではあるまい。学校に入学してきた子供達には、先生の学校言語は、感覚として通じていない可能性が無きにしも非ずである。
繋がらない言葉を繋げようとすると教室がバラエティー化していく。学校は、文字言語を基礎にして成り立っているから、バラエティー化した学校では、学習意欲における減退と学力低下は避けられないであろう。
言葉が心の作られ方と根っこで深くつながり、豊かな言葉が豊かな心を育むなら、今ほど言葉の教育が重要な時代はないであろう。迂遠なようだが、言葉の教育から出直したいものである。
参考文献:産経新聞掲載 辻本雅史著より
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