故人を偲ぶ
先日高松での事を思い出しながらブログを書いていると、次から次へと高松に関連したことが思い出されてきた。「湧き出てきた」と言うほうが適切かもしれない。亡くなった人との思い出を懐かしみ、思いを馳せることが「故人を偲ぶ」ことになると何かに書いてあった。以前、四国に住んでいた母の知人女性は3人いた。その中の1人は、母の若い時からの友人で私も子供の時から可愛がってくれたSさんだ。ブログに書くことを少し迷ったが、Sさんの親友と呼べるのは母だけで極端に友達の少ない人だった。少し気難しいところがある人で、今から思うと人付き合いが不器用だったのかな?とはいえ私にはとても優しい人だった。彼女は数年前に亡くなったが、私が生きている限り彼女という人間が存在していた事を忘れないでいたい、そして何故かここに記して残しておきたいと思った。何故なら認知症になった母は既に彼女の事を覚えているかどうか不明だし、今彼女の事を覚えている人が一体何人いるのだろうか?お墓参りするにも私は彼女が住んでいた住所も知人も知らない。ここに書くことでSさんへの供養になるような気がしたのだ。太平洋戦争の頃、戦前Sさんのお母様は歯科医をされていたそうだが、空襲で幼い弟とお母様を目の前で亡くされ、幼い妹もいたが、妹は幼いので人に引き取られ、彼女は12〜13歳で天涯孤独の身となったと聞いていた。その後、苦労をされ岡山へ嫁いで来られ、そこで私の母と出会ったそうだ。母はまだ独身で、近所に嫁いできたSさんと友達になったが、間もなくSさんのご主人が戦後流行っていたヒロポン中毒(覚醒剤)になり、やむなく離婚したそうだ。彼女は身寄りもなく、友達も母以外はいないと本人がいつも言っていた。離婚後も母とは付き合っていて私が小学生の頃にSさんが時々自宅に遊びに来てくれるときにはいつも板チョコを何枚もお土産で持ってきてくれていた。当時チョコレートは高級品で私も大好きだったので凄く嬉しかった記憶がある。ある時は表町の中華料理店廣珍軒で中華料理をご馳走になった。特に今でもあの時に食べた雲呑スープのツルッとした食感味は忘れていない。私の記憶って食べる物の事しかないのか(苦笑)小学生の時に編物を始めて教えてくれたのも彼女だった。先日ブログに書いた美空ひばりの映画『七変化狸御殿』に連れて行ってくれたのも彼女だ。その頃Sさんは何処かの社長のお妾さんになって男の子を出産したらしい。私も幼い頃その社長に何度か会ったことがあるが池部良に似た素敵な紳士だった。産まれてすぐ、その男の子は正妻が無理矢理Sさんと引き離し正妻のもとで育ったとのことだ。正妻にとっても気の毒な話だが、その頃のSさんの子供と引き裂かれた時の悲しみは、、、想像するに余りある。Sさんは生活する為に絶対媚びを売るような仕事にはつかなかった。ホステスという仕事は性に合ってなく、飲食店の下働きという地味な仕事をしていた。女一人食べるためには楽な道を選ぶかもしれないが多分彼女のプライドが許さなかったのだろう。そのプライドのせいで友達も少なく淋しい人生を送ることになったのだが、、、書き忘れていたがSさんは上品であか抜けて綺麗な人だった。お妾さんにはなったが戦争で孤児になり、生きていくので精一杯だったと思われる。親が亡くなり、学校こそ行ってないが行儀作法はしっかり出来ており、幼い子供から見ても素敵な人だった。一時期自分で小さな小料理屋をしていた時もあった。私が働いていた頃に昼御飯を食べに行ったこともある。厚焼のだし卵焼きだ。やさしい料理を作る人だった。その後、細々と関係が続いていた男の子の父親が亡くなり、その父親が経営していた会社も倒産したのでSさんは東京へ行き、私は暫く会うことはなかった。彼女は男性に対してだらし無いと言う事はなく、むしろ他の男性と付き合ったという話は一度も聞いたことがない程身持ちの固い女性だった。彼女は50歳過ぎた頃、東京でも1人で苦労をしたと聞いていた。女一人での生活にも疲れ、老後の不安もあったのだろう、お見合いで結婚することになった。お相手は小豆島に住んでいて子供はなく、農業をしていて地味で真面目な男性と聞いていた。少し聞いただけでもSさんには我慢出来ないだろうなあ、と私や母が心配するほどの環境だった。Sさんが派手だという事ではない。田舎では多分浮いて見えるのではないか?と心配したのだ。結婚する事が決まった時、持っていたブランド物のバッグや時計、衣類等殆どを処分した。幾つかは母や私にも譲ってくれたが、新しい旦那様や近所に住んでいる親戚の人達に対して気を遣っての事だった。「もう、私が持つことはないから、、、」とSさんが小豆島の方と結婚してすぐの頃だったか、その前だったかはっきり覚えていないが、若い時に産んで正妻のもとで育った息子さんが自殺をしたと聞いた。彼女が息子さんと生きていた時に2〜3回会ったことはあると聞いていたが彼女の悲しみは推して知るべしだ。新しい旦那様は彼女が私の母やSさんの数少ない知人全てと交際することを嫌がった。近所の人や新しい親戚の人達もちょっと雰囲気の違う彼女は疎まれていたのかもしれない。誰とでもすぐ親しくなるようなタイプではないからだ。いつも母に電話をしてくる時も旦那様がいない時だった。数年に一度、岡山で会う時も旦那様にとても気兼ねしていた。それでも彼女が旦那様に尽くしていたので、旦那様も段々と彼女に対して優しくなっていったのではないかと思う。10年以上前に高松に転勤になっていた私の娘のところへ母と行った時、久し振りにSさんと私の娘も一緒に食事したことがある。娘もSさんに会って、高齢なのに上品で素敵な方だな、と話していた。その後も時々Sさんとは電話では話していたが私が直接会う機会はなかった。ある時母がSさんと連絡が取れない、と言い出していたが周囲に知っている人もおらず、聞く人もいないので心配をしていた。暫くして母が彼女の旦那様の親戚を調べて連絡を取って分かったのだが、少し前に彼女は亡くなっていた。それも、旦那様は病気で家で寝込んでいて彼女が世話をしていたとのことだが、見つかった時は、旦那は布団の中で、彼女は居間の椅子に座ったままで亡くなっていたとの事。警察が調べたが事件性は無く、偶然にも同じ時期に亡くなったらしい。遺書とか何も無く、どちらが先に亡くなったかも不明との事だった。肉親との縁が薄い人だったから旦那様と一緒に逝けてきっと幸せだったのだろう、と思うしかない。ただ、せめて彼女が旦那様より1年でも長生きをしていたら、一緒に旅行でも行けただろうし、少しでも孝行出来ただろうと思うと辛い。人は彼女の事をどう思うかは分からないが、、、こんな女性がいたことを誰かに知ってほしかった。そして「共に過ごした時間は消えることのない宝物である」最近になって実感している。