先日見たドラマのお話。
障害者の親の介護をしながら働いている女性を清野菜名が演じている。
あるとき、ラジオ番組の懸賞?が当たり1泊のバスツアーに参加することになった。
最初はいやいやだったのだが、思いがけず参加者の女性二人と仲良しになり、楽しい時間を過ごした。
東京に帰ってきて、誰かが言った「LINE交換しよう!」という提案に対して、
「やめよう、それは」と。
最初はやりとりしていてもそのうち来なくなったりするのつらいから。
なんだか、妙に印象に残ったシーン。
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文系の人間は「非日常」という言葉を好んで使う。
また「祭り理論」とかいう言葉もよく聞く。
祭りは、例えば、年に一回の催しであり、いつも(日常)とは違う非日常の空間だから楽しくてドキドキ・ワクワクと心が躍る。
だから祭りは楽しい。終わって欲しくないと考える。
1泊のバスツアーは祭りなのである。
日常の生活から解放された空間である。
でもやがて祭りは終わる。
日常生活→非日常の空間→日常生活
という風に、非日常の空間はやがて終わり、また日常生活に戻る。
余談だが、文化人類学では、日常のことを「ケ」、非日常のことを「ハレ」というようだ。
(「ハレの席」などという言い方をする)
ここで非日常とは、日常生活で抑圧されていたものを開放し、これまでの日常をリセットすることで、その後に続く日常生活を頑張っていこうという糧になるべきものだと思う。
燃え尽き症候群みたいに、祭りの後に意欲をなくしちゃうのは正しい姿ではない(と思う)。
強引に話は飛ぶのだが、例えば、不倫相手の女の子と食事してホテルで過ごすのは紛れもなく祭りであり、その後、日常に悪い影響を与えてはいけないのである。むしろ、気持ちをリフレッシュさせることにより日常生活をより良いもの・秩序のあるものにしていくべきなのだ。
こういう風に考えていくと、非日常が日常になるということ、例えば、奥さんと別れて不倫相手と一緒になってしまったときには、それは不倫相手との生活が日常となってしまうということである。
つまり祭りが終わった状態である。
それがハッピーなことなのだろうかと考えてみると、おそらくそうではないような気がする。
祭りは楽しいけど日常は単調で秩序だっていてつまらない。
だから、人はまた新たな非日常を求めるのである。
「楽しかったからこのままで、ねっ」がいいのかもしれない。