展望「万葉集」その1 序に換えて 一月二十三日(月) | keiの歌日記

展望「万葉集」その1 序に換えて 一月二十三日(月)

万葉集は興味深いが難しい。敬愛する梅原 猛氏の著作の色々を辿りながら、なにか得られないかと、思い切って手を染める。また、何時ものごとく途中で投げ出すことになるだろうが、許されよ。

 梅原氏といえばどうしても柿本人麻呂を避けては通れない。また、そこから着手するのが一番手っ取りはやい。

 先ず、イメージ表現としての日本語、と題する小渕昭夫氏(1944年、宇都宮市生れ。フランス文学者。慶大助教授ー1956年現在ー。著書『わが思索のあと』、訳書『晩年のリルケ』)との対談から入ろう。

 その為、屡々出てくる略体歌、非略体歌について述べなくてはならない。

 万葉集の表記論的な研究、つまり三十一字の日本の歌をどうやって中国の字で書き表すかということだが、いろいろな表記の仕方の変化があるのだ。特に人麻呂歌集は表記的に大きな特徴を持っていて、二つのタイプがある。一つは略体というもので、助詞,及び助動詞,動詞を全部省く。

 例えば

  春楊 葛城山にたつ雲の

  立ちても坐(ゐ)ても妹(いも)をしそ思ふ

というのを、

  春楊 葛山 発雲

  立座 妹念(二四五三)

 と全部で十字で書く。これを略体歌と言う。特に巻十一に多く並んでいる。次に

  子らが手を巻向山に春されば

  木の葉しのぎて霞たなびく

という歌を、

  子等我手乎 巻向山丹 春去者

  木葉凌而 霞霏薇(一八一五)

と書き、「子等、巻向山」とテニヲハが表記してある。これを「非略体歌」と名づけてあるが、そうすると略体歌が平均十三字、非略体歌が平均十八字ほどになる。これがどいうふうに関係しているかと言うことが、今までの万葉学者によって非常に詳しく研究されてきた。

 その結論として、先ず略体歌が先にこしらえられて、次に非略体歌がこしらえられた(東大稲岡耕二氏説)。

 ややこしい長い説明になったが、これを踏まえて爾後書いていこう。


 契沖という徳川時代の國学者が、彼の師、下川辺長流の遺志を継いで「万葉集」の注釈を書き、「万葉代匠記」という本を出す。これにより長い間忘れれられていた「万葉集」が復興し、あの難読な万葉仮名で書かれた万葉集がはじめて近代人に読めるようになり、そこから近代の國学がはじまったわけである。

 長流が「万葉集」に目をつけたのには、かの水戸光圀が長い間顧みられず放って置かれた万葉集を悲しんで、長流にその復古を依頼したのだ、という話が残っている。(梅原氏講演”日本学の哲学的反省”参照)

 以後、現代に到るまでの日本の「万葉集」学はほぼ契沖の解釈の範囲内で動いていたと言っても過言ではない、と梅原氏は述べている。


 それ等によると、万葉集は「古今集」の序文に、大同元年(806)に平城天皇によって撰せられた勅撰集だったということが書かれているのが最初。これはかなり確実性が高い。

 ところがこれと全く違う一つの証言がある。いちばん古くは「栄華物語」に述べられている説、天平勝宝五年、橘 諸兄等によって作られた歌集だというのだ。「栄華物語」とは、藤原道長の栄華を中心に、プライベートな物語のかたちで当時の歴史を述べているもので、かなりの信憑性があるのではないかと梅原氏は言う。(歴史書であるから、と言うのだが果たして頭から信じていいのかどうか甚だ疑問=私註)


 このあたりで「古今集」の序(これまた"仮名序、真名序”への説明がややこしい)。を少し覗いてみよう。

 明日から古今集に踏み込んで行って見る。

                                         ー続くー


       今日の歌

 

             死せる蝶

 

 

     *蔑するにあらね一重のつばきばな吹き寄る風のこの冷たさは

 

     *うちを這ふひとつの思ひこころにもなきにくしみは性欲に似つ

 

     *緋のジャムを塗りつつ麺麭の耳を削ぐ朝ぼらけ嗚呼今日も一日か

                   (麺麭=パン)

     *聡き眸に背かれて在りわれはいま歌に溺るるまま死せる蝶

 

     *目くらまし立てるわが歌ひそやかな侮蔑のなかに戦ぐ樹に似て