万葉集解読の試み(奈良大 上野教授の論) と今日の歌 一月二十二日(日)   | keiの歌日記

万葉集解読の試み(奈良大 上野教授の論) と今日の歌 一月二十二日(日)  

 

万葉集の始まりの歌は…… ~若菜摘みの歌~

 天皇の御製歌
 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます子
 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ
  しきなべて 我こそいませ 我こそは 告らめ 家をも名をも
  (雄略天皇 巻一の一)


 新春の若菜摘みの行事に参加している娘たちの持っている籠とヘラを天皇が褒め、次には娘たちから名前を聞き出そう、とするところから、この歌は始まる。古代においては、男性が女性の「家」と「名」を尋ねることは、求婚を意味していた。家と名前を教える、ということは、結婚の前提となる「よばい」を受け入れることになるからである。それを、劇仕立てにしてせりふにすると、こんなふうになるであろう。

 見よ、大和はすべて私が君臨している国だ。すみずみまで、私が統治している国だ。それでは、私から名乗ろうぞ!家も、名も……。私の名は、泊瀬の朝倉の宮殿で天下を治めているオホハツセワカタケルノオホキミだ!

 つまり、この歌は大和の覇者・雄略天皇の名告りの歌なのである。おそらく、新春の若菜摘みは、大和王権においては豊作を祈る大切な農耕儀礼で、その儀礼には大王(天皇)が出座して、名告りを行う─ということが毎年行われていたのだろう。そして、その場で若菜を食することが、大和に君臨する大王の統治を表象する儀礼となっていたものと思われる。統治する土地を代表する美しい娘子を妻とし、その土地で生産された食物を食べることが、その土地の統治を目に見える形で表象することになるからである。

 しかし、不思議なことに、プロポーズの結果は、この歌からはわからない。振られたのだろうか。そんなことはあるまい。儀礼や劇ならば、娘たちが寄り添う姿を見せれば、事足りることである。つまり、この歌は大和王権の新春の儀礼の台本のような役割を果たす歌だった、とも考えられよう。

(奈良大 上野誠教授に依る)


0001 雑歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇代 太泊瀬稚武天皇

天皇御製歌(雄略天皇)

籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母

こもよ みこもち ふくしもよ みふくしもち このをかに なつますこ いえきかな のらさね そらみつ やまとのくには おしなべて われこそをれ しきなべて われこそませ われにこそは のらめ いへをもなをも

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ居れ われにこそは 告らめ 家をも名をも
ちなみに”源歌”読み現代語記載を記して置きます。
       (匿名氏のブログ”一日一歌 万葉集”に依る)kei記
 
        今日の歌 
 
          山茶花に寄す
 
    *からみ合ふ花ばなの佳し物言へぬまま奔放に葉を揺らしつつ
 
    *陥穽に落ち入りたるかふかき闇に 冬の冷雨のこころに痛し
 
    *みぞれ降るなか山茶花のしおるれば時を違へてのこれ 月明
(違へて=たがへて)
 
    *朝風呂に身潜ませつつしみじみと思ふ老とは朽ちてゆくこと
 
    *立てわが詩よ 語れ思ひを遠ざかる面影はみな暗きふゆ薔薇