初代が名乗った「尾形伸之介」とは芸名です。

本名は中野文男。

(本名は普通すぎますね(^_^;)

 

この名前を付けた方は三代目中村時蔵の奥様です。

つまり萬屋錦之介さんの御母堂です。

なのである意味、由緒ある名跡となります。

 

さて中野文夫さん。

なんと三和銀行・尼崎支店の銀行員でした。

 

昭和23年、三和銀行入社。

戦後も間もない就職難、

と言うかまだまだ混乱期。

 

たまたま知り合いに誘われて

東映京都撮影所(当時は東横映画)に行った時

その別世界に魅了され

2日間無断欠勤しエキストラをやります。

 

その時のことを尾形先生(以下、先生)は、

「撮影所の門をくぐったら、もうそこは別世界だった。

こんな世界があるのか!と思った。」

で、2年勤めた銀行をあっさりと辞めてしまった。

 

銀行の上司からは「そんなヤクザな仕事はよせ!」

と罵倒され、親からは勘当をくらいました。

(当たり前ですよね~)

何の保障もないバイトのエキストラですからね~

 

それでも東映に出入りすることになりました。

 

つまり無名の俳優志望としてのスタートを切ったのです。

当時の日給が200円!

 

先生の最初の役は片岡千恵蔵さんの『遠山の金さん』で

千恵蔵さんに短刀で斬りつけるヤクザ役。

千恵蔵さんがそれをよけ、自分が転ぶという

ただそれだけの演技だったのですが

「ヨーイ」の声で頭の中が真っ白になったそうです。

 

で、2年後の昭和27年。

東映の中で努力が認められ

準専属として契約します。

 

先生は「里美浩太郎くんとかのニューフェイスは

試験(オーディション)があったが、我々などは

紹介で簡単に入れた」と当時のことを振り返っておられました。

 

当時、経営難に陥っていた東映に

錦之介さん、橋蔵さん、千代之介さんという

“東映三羽カラス”が誕生し、東映時代劇の

一大ブームを巻き起こします。

 

それまでは電気代も払えず

撮影所の電気が止められたことも

あったそーです(笑)

 

その後、繁栄した東映内に

『東映剣会』(つるぎかい)を

創設し書記に就任します。

 

当時役者さんは殺陣ができるのが基本中の基本!

 

ニューフェイスで入った女優さんたちも殺陣を習いました。

劇の最初のシーンでは犯人と女優さんの殺陣シーンが必ず

あったからです。

例えば剣をよけるとか、

 

今の女優さんも薙刀を習ったほうが良い

と言うのが先生の考え方でした。

 

現在もその名残りがあり

役者の必須アイテムとして

必ず「殺陣」があります。

「殺陣」の仕事が皆無にも

かかわらず(汗)

 

剣会は正会員が30人、準会員が30人から

構成されていました。

女子も2、3人いたそうです。

準会員は試験ののち正会員になれました。

 

試験は先生たちが審査しました。

 

正会員になると会社に届け出てギャラがアップします。

 

また乗馬ができると乗馬手当てが数千円付くので

先生は馬に乗ったことがなくてもガムシャラに乗ったそうです。

 

昔の撮影所には馬舎があり馬が数頭飼われていて

馬の世話係もいたそうです。

 

スターさんが乗る白い馬以外は早い者勝ちで

イイ馬から順番に取られ、最後は駄馬しか残らなかったのです。

 

*先生は有名俳優を「スターさん」と呼んでいました。

 やはり星を持って生まれて来た人達なんですね。

 

しかたなくその馬に乗ると、人が走るより遅く

撮影がカットになって笑われたこともあったそうです。

 

また斬られ役が60人もいるのでスト権が生まれ

撮影がストップするほど力があったそうです。

 

先生も東映チャンバラ最盛期には

月に11本出演したそうです。

(全て斬られ役ですが、、、)

 

   〔錦之介さんに斬られる尾形伸之介先生・東映時代〕

 

当時のギャラが1本5000円。

月10本出たら5万円。

「なかなか良いギャラですね~」

と私が聞くと

「でもみんなピーピーしていた」

と言っていました。

 

撮影所の近くに朝鮮人がやっている

ドブロク屋さんがあり、よくそこで一杯ひっかけて

勢いを付けてから撮影に入ったそうです。

 

のんびりした時代だったんですね。

 

で、あの有名な「蒲田行進曲」

のモデルになった斬られ役集団は

先生たちの「剣会」だとか。

 

「階段落ち」の役者には会社から金一封が出たそうです。

当時2000~3000円だったので

今の価値では2、3万円ぐらい。

「剣会」の勇士が買って出ました。

 

あの映画のように大ケガをした役者はいなかったようです。

どうも転び方にコツがあったらしく

どこで止まるとか、どこから激しく転ぶとか、

 

撮影が終わるとその金でみんなで一杯飲みに行ったそうです(笑)

 

その他スターさんの吹き替え、例えば川に落ちるとかをやると

付き人さんからチップをいただいたそうです。

 

やはり今の金額で言うところの2,3万円でした。

 

当時「東映オールスター」という映画が年1回作られてていて

スターさんが勢ぞろいした時は凄かったと言っておりました。

 

昭和36年制作の「赤穂浪士」では先生は岡みつ子さんに斬られました

(^_^;)

 

   〔錦之介さんの一心太助にて 右隣が岡みつ子さん〕

 

しかし昭和40年代に入るとテレビの普及により

映画全盛時代に陰りが見えてきました。

 

と同時に制作費が掛かる時代劇が「ヤクザ映画」にシフトしていきました。

 

~ 以下、次回に続く ~