あやめ(菖蒲)を想う日である。




…あやめも知らぬ恋もするかな


周知のことだろうが、

『古今和歌集』所収のこの歌は
ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさ
という上句を持っていて
それはそのままそっくり序詞(じょことば)として
"あやめ"を導き出すいわば曲のイントロのような役割をしている。


つまりこの歌の趣旨は下句の

あやめ(ものの道理、分別)もわからないような恋をしてしまったことよ

という嘆きに尽きる。

恋は分別から最も遠く
それが自覚できないからこそ始末にワルイ。

そんな恋からは遠い今のけいあゆだが

あやめ(菖蒲)を買い求めて
今宵は菖蒲湯に入る。




邪気を払うとされるその香気に
しばし恋するのも宜かろうと。



うさぎうさぎうさぎうさぎうさぎ


よく晴れた端午の節句、
川辺まで
泳ぐ鯉たちを見に行った。

五月の風を受けて
それは元気に泳いでいた。









岸辺の緑も濃さを増し



サギもカモも共に遊ぶ。







クスノキの大樹も健在、







眩しい日差しを避けて

キャップ姿で行く。




林の中のベンチには

誰かが居ても居なくても…。



緑を分けて小径を行くと

枇杷が青い実を付け

紫陽花は固く小さな蕾を付けていた。








次の季節はもうすぐそこまで…。


うさぎうさぎうさぎうさぎうさぎうさぎうさぎ

川辺を離れて堀ノ内妙法寺さんまで赴く。



泰山木を見上げてその大きな白い花を探してみたが私の目には見出せなかった。



カタカタ、カラカラ…

風が聴こえる。

ベンチに腰を下ろして

風に揺れる絵馬のお喋りを聴く。


願いはカタカタ、カラカラ

天まで届くかな?



見上げると其処には青梅。


いくつもいくつもまあるい緑の実が揺れて

なんだか愉快だ。





此処にも次の季節が❣️

けいあゆもタンクトップに世間体のカーディガンを羽織っている。









そろそろ閉門の時刻、

太鼓と掛け声の後

鐘の音と共に門が鎖される。





帰り道はいつものカフェで


バナナジュースと熱々のホットドッグでおやつ。



寺の参道を行く。


いつも花で溢れている道路脇の家、

ブラシの木は鮮やかな花を見せていたが







今の季節ならばニオイバンマツリなど

塀際に並べられていた鉢たちの姿は全くなく


門ばかりでなく

家も窓がしっかり閉ざさされて

住む人の気配が消えていた。




施設にでも移られたのだろうか?

場を移ってもお健やかならばいいが、と

家主人の身が思いやられる。



諸々の思いを抱えて

五月のそぞろ歩き4000歩超。


4センチヒールのサンダルで

もちろん杖なし。


ペースも骨折前に戻った。



紫陽花の季節には

ゆうに間に合ったようだ。





うさぎうさぎうさぎうさぎうさぎうさぎ



そんなけいあゆの元気ごはん。


KINOKUNIYAで買った讃岐うどんに



卵や薬味をたっぷり添えて



けいあゆ流の釜玉うどん。




うどん嫌いだった母を思い出しながら食べた。

なかなかの美味だった。


うさぎうさぎうさぎうさぎうさぎうさぎうさぎ


さて

冒頭に挙げた和歌の上の句は

芭蕉の句に繋がった。


ほととぎす鳴くや五尺のあやめぐさ


芭蕉は元の歌の「五月(さつき)」を

「五尺」に置き換えてみせた。


安易なパクリという勿れ。


そもそもは遊戯に端を発する俳諧の

これが真骨頂であることがわかると

俄然芭蕉くんへ拍手を送りたくなる。


「五尺のあやめに水をかけたるやうに歌は読むべし」と俊恵は述べた。

それを受けて心敬は「濡れ濡れと差し伸びたるなり」との解釈を『ささめごと』に述べている。


それらに共感して

五尺(約1.5メートル)のあやめ草に

水をかけてさらりと流すように句を作るのを

芭蕉はよしとしたのだろう。


芭蕉は

そんな俳諧の目指すところを踏まえて


ほととぎすの鳴き声を

まるで五尺のあやめ草に水を流すように見事だと賞賛してみせたのだ。


ところで

賞賛されるほどのほととぎすの鳴き声とは?


『枕草子』には


「郭公(ほととぎす)の声、尋ねに行かばや」


と清少納言の発案で


ほととぎすの初音を聴きに

牛車で京の郊外に出かけるさまが描かれているが、


実は

けいあゆは

それと意識してほととぎすの声を聞いたことがない。


とりあえずYouTubeでそれを。