海棠は今年も咲いた
その家の玄関脇に。



花はもちろん、蕾までも賑やかで華やか。


屈託の無い女の子たちのような花だ。



その家の

道に面した小さな庭で

かつて盆栽作りをしておられたご老人を


見かけなくなって久しい。


此処に至ると少し歩みを緩めて

ガランとした庭を

寂しく眺めて通るのが常だった。





ところが

このところ二度ほど

彼らしい声が

家人を呼ぶのを漏れ聞いた。


しかも一度は

暖かな色の明かりの灯された室内から細いがしっかりした声で。


病を養っておられるのだろうか。


その姿は見えなくなって久しいが

彼にも海棠のお喋りが届いているといいな。









満開の桜が灰色の空に咲いている。



ついつい見上げて過ぎるが

足元にも強かに咲く花がある。

孫が好きだと言った花。




その名を知らず

ブロ友さんから教えられたのは

ブログを始めたばかりの頃。


今はおせっかいなSiriが教えてくれる。



よくも悪しくも

知ろうとする気持ちがあれば

ITが応えてくれる時代が来ている。



さて、

この椿の固有の名を知りたくて



Siriに尋ねるとこんな答えが返ってきた。




椿という名は先刻承知。

それ以上の期待には応えてもらえなかった。

まだまだだね、ITくん、

頑張ってくれたまえ。





うさぎうさぎうさぎうさぎうさぎうさぎうさぎ


 


さて

日頃は自己満足に終始するけいあゆごはん


今晩はちょっと自慢させてもらおう。




自慢の一つはこのスープ煮。




蕪のスープが食べたくて

蕪をバターで炒めてひたひたのコンソメで煮た。

途中で思い立って

バターで炒めたネギを加え

さらに焼いた薄切りベーコンも少し加えた。


ベーコンには主張させない。

燻製臭の少ないものが好き、

最近はもっぱらKINOKUNIYAで

ローマイヤの切り落としを買っている。


柔らかになったところで

牛乳を加えて少し煮て

仕上げに生クリームをプラス。


最後に蕪の葉を散らす。

味付けは塩少々だけ。


器に盛ってから黒胡椒を振って味を締める。

これが功を奏した。





具材の取り合わせが抜群で

さらりとしていながら深い味わい、

と自画自賛。


そう、

「蕪」は大根にも.「ネギ」は玉ねぎにも換えられない。

芭蕉の「行く春を近江の人と惜しみけり」のような一皿と言えるかな?




あとは

ミニトマトとモッツァレラチーズのカプレーゼを添えて。






思いつきのスープ煮が生きる献立になった。






自慢のもう一つは鯛茶漬け。



鯛は九州風の胡麻ダレに漬けて

冷蔵庫で一時間置いたもの。


タレは煮切り味醂、甘口醤油、切り胡麻。



タイミングを合わせて釜で炊いたご飯と



まずはそのままいただく。


うふっ。



熱々の出し汁を用意して




漬けをたっぷりご飯にのせて





山葵や海苔をトッピングして

出し汁をたっぷりかけていただく。


うふふ…が止まらない。



これが

けいあゆ自慢の出汁茶漬け。



さてオマケにもう一つ。


昨日焼いた鰤の照り焼き、

そのうちの一切れを使った

けいあゆ流鰤大根。


昆布出しで柔らかく煮た大根に味醂、砂糖、醤油で味を含ませてから

鰤の照り焼きとそのタレまでも加えて

少し煮る。



生臭さの全くない鰤大根の出来上がり❣️










美味しいものは作れる。


特別な食材でなくても

想像力と創造力とを駆使して

つまりは食いしん坊の執念で。



こんなごはん

ITは(たぶん)(まだ)作れない。



とまあ、自慢たらたらで…
スミマセン。





<今宵は芭蕉とひと遊び>

『去来抄』の一節


行く春を
近江のひとと惜しみけり


先師いはく、「尚白が難に『近江は丹波にも、行く春は行く歳にも振るべし。』といへり。汝、いかが聞きはべるや。」 去来いはく、「尚白が難当たらず。湖水朦朧として春を惜しむにたよりあるべし。ことに今日の上にはべる。」と申す。先師いはく、「しかり。古人もこの国に春を愛すること、をさをさ都に劣らざるものを。」 去来いはく、「この一言、心に徹す。行く歳近江にゐたまはば、いかでかこの感ましまさむ。行く春丹波にいまさば、もとよりこの情浮かぶまじ。風光の人を感動せしむること、真なるかな。」と申す。先師いはく、「去来、汝はともに風雅を語るべきものなり。」と、ことさらに悦びたまひけり。 


芭蕉が去来に問う。


「尚白は『近江は丹波にも、行く春は行く歳にも替えられる』というがどうか?」

と。


去来が答える。


近江琵琶湖のほとりならでは春を惜しむ情は浮かばない、これは実景実感の句だ」

と。


つまり

「行く春」も「近江」も他には代えることはできないというのである。

 

また芭蕉は

琵琶湖のほとりで春を惜しんだ古人たちにも言及する。


感嘆しきりの去来に芭蕉が言う。


「去来よ、お前は共に俳諧を語るにふさわしい者だ」


去来はさぞかし嬉しく自慢だったことだろう。



この句のいう「昔のひと」は

古来湖水のほとりで春を惜しんだ数々の歌人たちのことである。


僭越ながら

けいあゆ自身も

旅に出ると

其処に生きた人、其処を歩いた人を思い

彼らと対話する気持ちで歩く。


醍醐の花見もまた然り。