起き抜けのアタマに
Ambarvaliaということばが浮かんだ。
あむばるわりあ…
長らく眠っていたそれが
蘇ったのは
おそらくは
昨日見たブロ友さんの記事に
シュールレアリスム展
が取り上げられていたからだろう。
それは
昨年末京都文化博物館で開催されたものと同じ内容であるようだ。
シュールレアリスムといえば
多くは絵画を、例えばダリに代表されるような画家たちとその作品を思い浮かべられる方々が多いだろうが、
そしてそれは好悪の分かれるところだろうが、
私にとっては半世紀に亘り
『Ambarvalia』なのだ。
それは
日本におけるシュールレアリスムの旗手
西脇順三郎氏の詩集である。
高校の担任が
「好きな本を読んでいられるぞ」
と勧めたので
国文に進学したものの
自分の興味関心のありかが何処にあるのか
もがくように探る日々だったが、
(…と言うとカッコいいが
つまりは
好き勝手に読み漁り読み耽り
気ままに男友だちと遊んでばかりいたのだが、)
自分の興味関心がフランスの象徴詩にある
と思い至った時には
国語国文学科にいることが
いかにも残念だった。
其処は
フランス語からもフランス文学からも遠く
ならばと通い始めたアテネフランセでは
今で言うストーカーめいた被害に遭って
通うのを止めた。
フランス象徴詩ではないが
シュールレアリスム詩の旗手たる西脇順三郎氏が
女子大の名誉教授で
名誉図書館長であることを知って
そのご教授を受けることを期待したが、
既にご高齢だった先生が
大学にいらっしゃることさえ稀で
まして直接お話しを伺う機会はなかった。
☆西脇順三郎(1894〜1982)
それは
日本古典文学研究において優れた業績を残された久松潜一氏の場合も同じで
こちらは特別講義を拝聴する機会を得たが
ご高齢の先生の言葉はほとんど聞き取ることが出来なかった。
それからまもなく先生は亡くなられた。
☆久松潜一(1894〜1976)
ちなみに私が学部の学生だったのは
1969〜1973である。
どんな優れた人物にも
その盛りと衰えがある。
時に合わなければ
出会えなかったのと同じ
そんな思いが深く来したものだ。
だがそれは間違っていた。
彼らには著書、著作がある。
それを紐解けば彼らと出会える。
本当に価値あるものなら
それは時間を超える。
古文と長く付き合ううちに
そう思うようになった。
朝の珈琲、
はるか、と茹で卵と。
博士課程の学生だった時代に
指導教授の推挙で
近代文学学会で発表をしたことがある。
既に発表した論文をなぞっての学会発表ということで緊張もなく
なかなか上手く喋れた♪
と思った。
高校生相手ではあるが講義は慣れている。
続く某大学教授の発表の後、
指導教授から
「今の発表どうだった?」
と感想を問われたので
「滑舌が悪く何をおっしゃっているのか判然としない箇所がいくつもありました」
と答えると
「学者は話し上手でなくてもいい。
その価値は書いたもので決まるのだから」
と言われた。
口先ばかりの研究者にならないように、と
暗に私に注意を促されたのかもしれない。
未熟者の私としては
それじゃ、発表の意味がないし、
講義を受ける学生が気の毒じゃない⁉️
と思ったが
もちろん反論はできなかった。
それは
"学者"がテレビに出たら
学者としては終わる
と言われていた時代だ。
その当時H大学の助教授で
テレビに登場し始めておられた先生は
のちにその大学の総長になられた。
江戸文学がご専門の和服がお似合いの先生だ。
また私の女子大では
女性教授陣は皆独身で
いわば学問と結婚した人たち。
「子持ちでは万年助教授じゃない?」
との風評があった先輩が
もちろん教授を経てのちに学長になられた。
学者だって結婚して子どもを持ち
招かれればマスコミにも露出する、
時代の大きな変わり目が
その辺り(1980年代)にあったと思う。
今なら
しっかりした著書を著すのはもちろん、
わかりやすく快活に喋る先生がいい。
もちろん明瞭な声で。
西脇順三郎氏とお話しする機会はなかったが
その詩集を紐解き
彼のシゴトをなぞることはできる。
久松潜一氏も同様だ。
例えば
何故日本人が『万葉集』の多様な詩歌から
五音、七音の詩歌へと傾斜していったか
そんな考察はワクワクする愉しさである。
旅先で数学の本を広げて
「僕は宵っぱりだから
けいあゆさん先に眠っていいよ」
そう言った孫は
ふと見ると私より先に爆睡していた。
73歳になってもけいあゆは
若者のように宵っぱりで
老人のように早起きである。
寝起きはすこぶるいい。
知りたいことは無尽、
読むべきものは山積、
作りたい食べたい…
おしゃれも旅もしたい…
寝ている場合ではない
それがけいあゆの現実だ。
ブランチは簡単に、
姫たけのこと菜花の天ぷらでミニミニ天丼、
ラディッシュの甘酢漬け。