今はもう知っている。

鎌倉鶴岡八幡宮で源実朝を襲ったのは
甥に当たる公暁だということを。


小学校低学年の頃読んだ歴史本がある
タイトルは忘れたが
日本史の重大な出来事が画像と共に紹介される
いわば大判の絵本のような体裁の本だった。


その中に
公暁が鶴岡八幡宮の大銀杏の陰から
実朝の行列を窺う場面が描かれた一枚があった。



鎌倉は未知の土地だったし
(それどころか九州から出たこともなかったし)
日本史の全貌など知る由もない年齢だったが

何故かそのシーンを長く忘れずにいて
しかも
長らく、公暁は実朝の従兄弟読み違えたままいた。
幸いそれはテストに出ないし
人前で披瀝して
大恥をかくようなこともないうちに
正しく修正されたのだが。

所詮子どもの頃の記憶なんてそんなものだ。


今、『鎌倉殿の13人』というドラマを観ながら
やがて来るだろうその衝撃的な場面を思い、

遠い事実誤認の日を思い出している。



その本には実は
もう一枚忘れられない絵がある。

一面の銀世界を行く兵士たちの行列だ。

彼らの来た道も雪原、そして行く先も雪原。

彼らは黒い点のように行列を成して進み、
頭上には烏の群れが舞っている。

幼いながらも
彼らは勢いよく行進しているのではなく
相当に飢え凍えて疲弊し
烏たちは彼らの死を予見して待ち受けているのだと分かった。


コワイと思った記憶はない。
それが歴史上の出来事ならば
直視しなければならない
そう思ったのだと思う。

この一枚の絵から
戦争の愚かさと悍ましさは
幼い私にも充分感得できた。

…だから忘れない。

その割に
その絵のシーンに付された解説はまるで覚えていない。
それはいつ、どこで起こった出来事だったのだろう。


今となっては探りようもないが

加藤楸邨の句に出会って
その絵のシーンがまざまざと蘇った。

つひに戦死 一匹の蟻 ゆけどゆけど

出征し帰らぬ人となった友人を思って作した句だという。
昭和14年の作だから
その戦場はノモンハンだったかもしれない。

☆ネットより、ノモンハン事件。

満州国とモンゴル人民共和国の国境紛争を口実に

モンゴルに侵攻した日本軍とそれを防ごうとするソ連軍との間で起こった紛争。

日本の歩兵はソ連軍の空軍、機械化部隊(戦車部隊)の前に

ひとたまりもなかった。



その句は
私にかつて見た本の中の絵を思い出させ
さらに雪原に黒い点の一つとなって斃れた兵士を思い描かせた。
やがて雪か烏が彼の屍を覆うだろう。



この本と出会ったのは
『りぼん』だの『なかよし』だのといった少女漫画を欲していた頃だと思う。
当時、馴染みの本屋では
祖母の店の名でツケが効いたが
自らこの本を望み手に取ったとは思えない。

選択し買い与えたのはきっと父だ。

母は成績に拘る教育ママで
学校から帰るや彼女手作りのワークが待ち受けているといった具合だったが、

父はもっと大きなところで
私を育ててくれていたのだと今は知っている。

どちらにせよ
思考の原点を作る時期に
リベラルな環境を与えてくれたことには感謝しなければならない。
感謝のしるしには
花や好物を仏壇に供えるくらいしかできないが…。
 

それにしても今日(こんにち)
夥しい映像や情報が
次々と押し寄せては消える。

だがそれは
私の脳裏に残る2枚の画像のように
久しく留まることはないのが面白い。




 



うさぎうさぎうさぎうさぎうさぎ


さて…
供物にもならない
けいあゆ独創の一皿。

混ぜ寿司を作ろうと
酢飯と思って解凍したのは
なんと筍ご飯❣️

ええいままよ、
と寿司酢と焼いた鮭、さらにディルを混ぜ込み、イクラをトッピングしたもの。


なんだこれは⁉️と叱られそうなので

ひとりで楽しんだなんちゃって混ぜ寿司。


ディルがいい仕事をしてくれた。



添えた副菜は

これも簡単、はんぺんのチーズ焼き。







さて独創のもう一皿。

40グラムのパスタを茹で

えのき茸ピリ辛なめ茸、釜揚げしらす、

たっぷりの博多ネギとイクラが味のポイント。


特に味付けはしていないが

なめ茸のピリ辛味としらすの塩味が充分効いて

なかなかの出来栄え。





サラダの代わりに添えたのは

カニカマと胡瓜の酢の物。




これもまた仏様方には

きっと不評だろうが

私にはうふふ…の美味だった。




さて今日は何食べよう?